公開を待ち望んでいた『オッペンハイマー』に出会って

公開を待ち望んでいた『オッペンハイマー』に出会って

映画「オッペンハイマー」は、2023年にアメリカで、2024年3月末に日本で公開された、クリストファー・ノーラン監督による映画作品。
日本の近代史とは切っても切り離せない存在である原子爆弾の開発者、「原爆の父」として名を馳せた科学者『オッペンハイマー』の人生を描いたものだ。

日本での公開が遅い、ということでも話題になった。ノーラン監督は非常に人気の高い映画監督であるため、私を含め本作の日本公開を待ち望んだファンも多かった。にもかかわらず、理由を公言はされていないが、日本での公開は半年以上も遅いものになった。

この記事では前提の共有のためにあらすじをざっくり書いてるくらいにはネタバレに配慮がないので先に注意。
ネタバレ、あるよ。

ちなみに、映画館に着いたのが結構時間ぎりぎりだった。
映画を見終わって真っ先に、パンフレットを買いに行ったのはもう当たり前の行動だったと思う。

戦争の話は嫌いだった。
昔から、特に祖父から何度か――あまり会う機会が多くはなかったので本当に「何度か」だけど、話を聞いていた。
でも、戦争の話は暗いし重いし、聞いていて憂鬱になる。だからあまり聞きたくなかったし、聞き流していた内容がほとんどだった。そんなことを、今になって思いだした。

補足:バーベンハイマーについて

とにかくテーマが『原爆の父』である。他国はともかく、日本での公開には色々な曰くが付いた。
日本で果たして無事に公開されるのか、という心配すらしていたけれど、そんな中で『バーベンハイマー』事件が起こる。これは要して言えば、ネット炎上事件だ。

全米公開を目前にしてミーム化した「バーベンハイマー」は、それを公開遅れの理由として挙げた記者すらいた。

苛立って口が悪くなってるね、ごめんね。

でも、評論気取ってるくせに当時のことを何も分かっていない。
そもそも炎上時点でも日本公開の話は何も上がっていなかった(日本のノーランファンは「いつになるんだろう、まだ日本公開の話が出てこないのは題材が題材だからやっぱ大変なのかな」ということを言っていた)ので「これが原因で遅れた」などと断言することは不可能である。勿論当時に水面下で進んでいた日本配給の話がこの件でご破算、という可能性を否定しきることは出来ないが、その根拠もどこにも示されていないので、オッペンハイマーのアカデミー賞受賞でいっちょ噛みしたくなっただけの記者だろう。

ついでに未だに誤解があるので書いておくと、バーベンハイマーのミームにオッペンハイマーは本当にまっったく関係が無い。貰い事故である。
元々、まったく毛色の違うオッペンハイマーとバービーが同時公開である、ということで(停滞気味だった)米国映画界を盛り上げようという動きがあり、この二作をまとめてそう呼んでいた。が、段々ファンが過激化し、原爆の爆破雲(キノコ雲)をバービーの髪形にコラージュしたりと原爆を茶化すような投稿が相次ぎ、バービーのTwitter公式アカウントがそれに「最高にクール!」などと肯定的な投稿を繰り返したことで炎上した、という流れがある。
バービーのアカウントが原爆を笑いものにしたという炎上事件の話であって、オッペンハイマーは一切関係ない。公式はこの件に言及は一切無かった筈だ。決してこの作品サイドが戦争や原爆を軽視していたという話ではない。

本題:オッペンハイマーとは

物語的な描き方をしているものの、伝記の様だ、とも感じる映画だった。
起きた出来事が、つらつらと論じられていく、それが物語の形になっていく構成。
物語は、オッペンハイマーが聴聞会にかけられる場面と、その彼が語る過去という構成をメインにして進む。更に、その聴聞会の裏にある狙いと黒幕、そして結末。

冒頭は、ストローズという男に新しい研究室を案内されるオッペンハイマーの姿から。そこで彼はアインシュタインと再会し、何かを語り、そしてアインシュタインは険しい顔をしてその場を去る、という印象的なシーンでこの映画は始まる。浅薄な知識層としては、アインシュタインが出て来るだけで「おっ」となるのだ。あとアインシュタイン顔すごく似せてる……すげ。

科学者として優秀でありつつも、理論派のオッペンハイマー。実践では後塵を拝することが多く、そちらの面であまり優秀ではない。精神的にも不安定で、ストレスや嫉妬心などから、出来心で毒を注入した林檎が、あわや人を殺すところだった事件も。
理論においては非常に優秀で、多くの科学者たちと交流を持ち、研究者として名を馳せていく。一方で共産主義的な考え方も強く、教授として学生たちを見る一方で学内に組織を作るなど、(現代の感覚では)かなりやばいこともやっていたよう。

そんな共産主義的思想を持っていて(勿論、当時のアメリカは資本主義国家として社会主義(≒共産主義)国家と敵対している)尚、アメリカの原爆開発チームリーダーに任命されるほどの優秀さだと言われると、その飛びぬけた才覚の一端も察しようというものだ。彼は当時、共産党に(ソ連に)情報を流す可能性すら疑われていたというのだから、任命する側も失敗したら首が飛ぶでは済まなかっただろう。賭けだったことが窺い知れる。

それでも原爆の開発を急がなくてはいけなくなったのが、ナチスによる核分裂実験の成功の報。「理論上ありえない」と実験そのものを疑ったオッペンハイマーの隣の研究室ではそれを見事に再現し、理論の間違いが証明されてしまった。これによって、核爆弾を作ることが可能なことが確信され、世界は核兵器の開発競争に突入。大国アメリカも急ぐ必要性に迫られた。
「この国が核兵器を持つのが正しいのかは分からないが、ナチスではいけない」としてリーダーを受けるオッペンハイマーは、この研究の為に街を一つ作らせて研究チームやその家族はそこで生活をすることに。3年と何十億ドルもの投資は、ついに原子爆弾の開発成功の結果を叩き出す。

しかし、その前に戦争の発端ナチスのドイツが降伏。残るは特攻をかますしか出来ない小国日本を残すのみ。「原爆を落とす必要なんてない。日本はもう終わっている」と科学者が唱える一方で、アメリカの上層部はソ連へのけん制を重視。また、「日本は止まらない。日本の本土を全て攻撃でもしない限り」という考え方もそれを後押しし、オッペンハイマーら科学者達の思惑の外側、政治的な部分で原爆の投下を決定。

ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下が成功し、戦争を終わらせた英雄として讃えられるオッペンハイマー。しかし、それによって生まれた被害の惨状や、得た力を使わずにはいられない世界の現実を知り、彼はその後の水爆開発に対して「核開発の競争になるだけだ」と反発。

この反発が、彼の国への忠誠を疑わせ、聴聞会にかけられることになった、という。

しかし、実はこの聴聞会は裏では野心を燃やし、かつて自身に恥をかかせたオッペンハイマーを憎むストローズが仕組んだものだった。彼への聞き取りをする聴聞会の参加メンバーはほぼ全員がストローズの息がかかっており、彼の名声を失墜させ、彼の影響力を削ぎ、彼の力を失わせることこそが目的の出来レース。

最後、ストローズはオッペンハイマー憎しのあまりの行動の数々から、オッペンハイマーを慕う者達の反発にあい、野心を挫かれて終わる。

映画冒頭でオッペンハイマーとアインシュタインの語り合う姿を遠目に見ていたストローズは、「オッペンハイマーは私の悪い話をアインシュタインに吹き込んだ。だから彼は私に険しい顔を向けて去って行ったんだ」と憤った。それが、勝手な思い込みだと知りもせず。
この時の会話が映画の最後を〆る。「私達は(世界を)壊した」。原爆の父が語る最後の一言は、重たい。

映像と音響

と、ざっくりとあらすじを述べた。これはどちらかと言えばこの後の話の為の整理である。

ノーラン監督の作品といえば、凄まじい映像表現が挙げられる。そして映画館で味わうことに大きな意義を感じさせる圧倒的な音響。
それは今作でも健在だった。

いくつかその圧倒的な表現力を叩きつける象徴的なシーンがあるが、やはり印象の強い二つをあげたい。
……正直、誰でもここは挙げると思うけど。

1:原爆実験

一つのクライマックスであった。映画としては多分中盤~終盤への転換点であったと思うが、表現としてあそこほどの盛り上がりがあった場面はないだろう。

3年もの月日と莫大な金額。
多くの人が関わり合い、意見を交わし、悩み、続けた研究の集大成。そしてポツダム宣言の為にも間に合わせなくてはいけない時間的逼迫。大雨による時間ギリギリの延期。

何キロも離れた所から見なくてはいけない、誰でも知っている「原爆」の爆破実験。カウントダウン。

爆発。

原爆が「ピカドン」と呼ばれていた、という話を、このシーンで唐突に思い出した。視界を埋める強烈な光があって、見ていた研究者たちがみんなそれをレンズ越しに見る。そして皆が眩しさを思い知った直後、届くのは地震のような轟音と、強烈な爆風。
あのとき映画館にいた私達は、完全に、オッペンハイマーたちと共に爆破実験を見ているギャラリーの一人だった。これはきっと、映画館で見るからこそ成立した体験だったと思う。3Dとか4Dとか、そういう(それはそれで面白いかもしれない)ことをしなくても、そこに体験は描けるんだということを深く感じる表現だった。

2:スピーチ

もう一つの印象的なシーンが、オッペンハイマーによる「広島への原爆投下成功の報を受けてのスピーチ」だ。

戦争を終わらせた大英雄である。
観客からの大喝采を浴びながら前に立ち、「ドイツにも落としたかった」とジョークを飛ばす。
史実だと「ドイツにも落とせるよう(開発が)間に合えば良かった」といった内容だったか。割れんばかりの歓声を浴びるオッペンハイマーは、そこで原爆が爆発する幻覚を見る。

完成を上げる観客たちが光に包まれ、消し飛ぶ。
スローモーションで肌が爛れ顔が崩壊していくイメージと、炭化した塊になった何かを踏みつぶしていたことに気が付く自分。
大歓声が鳴っていた筈なのに、完全な静寂があって、――はっと意識が現実に引き戻される。
続いている大歓声、立っていられない自分、ふらつきながらその場を後に――というあの演出は、映像と音響に絶大な力を注ぐノーラン監督ならでは。

あまりにも生々しい『人間』の描き出し

加えてこの映画は、人間の持っている矛盾性が非常に強く描かれていた作品だと思った。これは映像や音響の表現から離れた、内面の話である。
そもそもオッペンハイマーが聴聞会にかけられたのは、水爆への反対が発端となっている。
これは彼がソ連のスパイではないかという疑惑を深めるものであった故に聞き取りを、という流れのものであったけれど、そんなどうでも良い動機の話は置いておいて、オッペンハイマーの持っている二律背反を、徹底的に描き出していた。

原爆を開発した男が水爆を批判すること。
共産主義思想とアメリカへの貢献。
そもそも、作った兵器を使うことに対する嫌悪感。
はたまた、一人の女を愛していると言いながら違う女を選んだことまで。

聴聞会には彼のことをこき下ろそうとする悪意がふんだんに含まれていたから、というものあるが、結果的にこの構図はオッペンハイマー自身にもその矛盾を突き付け続けた。

非常に印象的なのは、オッペンハイマーに原爆開発チームのリーダーを任せた将軍の決断である。
オッペンハイマーの共産主義者疑惑を持っていてなお、それでも彼を任命する。人間は矛盾しているものだということを、端的に表している決断だった。

とかくキャラクタを生み出すにあたっては分かりやすさが重視される昨今、キャラクタはよく記号化される。
『ツンデレ』『クール系』といった性格的な属性や、『勇者』や現在多く見る『転生』などの立場的な属性。『クール系優等生』はテストで100点を取るけど口調が冷たくて敬遠されがちだけど実は可愛いものが好きだし、『裏のありそうな不良』は学外からも恐れられている腕っぷしの強さがあるけど実はおばあちゃん子で思いやりに溢れていたりするわけだ。
と言われて何となく情景が浮かぶオタクは絶対にいる。
こんな風に記号化されていると、客は何も知らないのになんとなくそれを知っている気になれる。たとえば糸目のキャラに「目を開いたら本気」だとか、声優を見て「裏切りそう」だとか、(成否はさておき)そこに記号を見出しているわけだ。

それは勿論悪い事ではないのだけど、しかしそれだけではキャラクタは『人間』になれない。人間はもっと複雑なものだ。そしてその複雑さをみんな受け止めて生きている。優等生だってサボりたくなるし、テストで赤点を取るかもしれない。裏のありそうな不良が実は腕っぷしゼロの弱い奴だったりする。そのくせ喧嘩を吹っかけてきたりね。

共産主義的な思考を見ても、アメリカに貢献する意志と矛盾しない。自ら林檎に毒を入れても、人がそれを食べないように必死になる。自分で開発した兵器が実際に使われることを恐れる。第一の破壊兵器を作った男だって、第二の破壊兵器に反対する。内心で死ぬほど悔やんでいても、「ドイツにも落としたかった」と笑い飛ばせるのだ。
理論と現実は違う。そしてその時置いていかれるのはいつだって理論だ。

これは『原爆の悲劇を描かなかった』作品か

本作について論じられる議題はいくつもあるだろうが、その一つ、大きく取り上げられることを何度も目にしているのが『日本の不在』だ。

爆発によって受けた被害を描かない。アメリカの加害から目をそらしている、という評もある。それは正しいのか。そう観るべき映画なのか、それを描くべきだったのか、というのは難しい議論だと思う。

私は、バーベンハイマーが流行った時は正直に言ってとても不愉快だったし、強く憤った。オッペンハイマー公式が沈黙を貫いたことを美徳だと感じたが、一方でもう一歩踏み込んで、「原爆の被害を茶化すような、恥知らずな真似はやめろ」とまで言って欲しい気持ちもあった。
私は日本人として日本を好いているが、戦争の歴史などはあまり関心を持っていない。原爆を揶揄する行為への不快感はまだしも、ここでもう一歩踏み込んで欲しいと感じた自分に驚いたことを覚えている。

そんな私であったけれど、本作にその面での不満は無い。無いのだ。日本が不在ではないか、という評を事前に見ていなければ(ずっと見たいと思っていた人でそれを目にしないことは難しかっただろうけど)、そのことを考えもしなかったかもしれない。

『原爆』を描く時に日本は必要不可欠だろう。だけど、『オッペンハイマー』を描くにあたってそれは必要だとは思わなかった。が、世の中ではあまりその見方はされていないように見える。あるいはメディアがさせたくない、のか知らないけれど。

例えばこれは流石に暴論だと思う。
勿論金銭的な理由はあるだろう(アメリカ公開の映画でアメリカ人の加害を悲劇的に描くことが有利に働くとは思えない)が、そもそも大前提が抜けている。描くべきなのか、描かなくてはいけないものなのかだ。

日本人だからそれを言う権利がある、というような装飾をして、かなり言いたい放題ではないか?

この記事なんて、記事内で自分で書いている。
「オッペンハイマーは結局日本のことを見ていない」「現に、彼は日本に来たことも無い」と。なら、オッペンハイマーを描く物語において、日本を大きく取り上げ、原爆と日本の悲劇を描くべきであると何故言えるのか。この映画は金銭の欲に負けて表現から逃げたという結論ありきで書いているに過ぎないから、そういうズレが起きるように見える。見出しで売ってるだけの、評論擬きだ。

オッペンハイマーは確かに、日本の悲劇を重視しなかったかもしれない。少なくとも、日本人が望むほどには。
彼には色々な理由があって水爆の開発には反対しただろう。その中には日本の悲劇もあっただろうけど、必ずしもそれだけではないだろうし、それがメインでもなかっただろう。日本という国を悼むのであれば、日本を訪れているだろうというのは自然な考え方だし、彼にそれが出来なかったかと言えばそうではないだろうから。
彼の後悔は、その多くの部分を「強大過ぎる兵器の開発によって起きてしまった世界の変革」に向けられていたと思う。

それでも被災地の写真であろうものを見て目を覆ったのはそれもまた彼の意志で、自分の作ったものがそれを生んだことを悔やんだ。繰り返さないためにという意思も含み、彼は栄光を失ってでも反対を続けたのはこの物語において、事実だ。

原爆の悲劇は事実で、大変に痛ましく、核の悲劇は忘れてはならない、世界史に残さねばならない大事件だ。
しかし、原爆に関わる人物の話を描くならそこにどれだけの被害があったのかを描け! というのは、近年のポリコレ思想に近い強制感や底意地の悪さを感じている。黒人が主役の話が欲しいなら自分で作れよ、と言う日本人(の一部)が、自分たちはそういうのとは違うみたいな顔をして、アメリカ人に原爆を悔やむ作品を作れと言っている。自分で作れよ。アメリカ人が作ることに意義があるというなら、そういう思想のアメリカ人を探して協力すれば良い。結局、有名な(ノーランという)監督に都合の良い話を描いてもらえなかったからごねているだけではないのか。

さらに重ねて言うのであれば、そういった原爆の被害を無視した作品かと言えば、そういうわけではないとも思う。
先述の被害を見る研究者たちのシーンでは、誰も喝采を上げなかった。これは、原爆投下、終戦とオッペンハイマーを英雄にした後の登壇で彼が「大成功だ、ドイツにも落としたかった」と(大衆の為の)ジョークを飛ばして大喝采を浴びるシーンとあまりにも対照的だ。あまりにも陰鬱で、『原爆が齎した被害』を否定的に見ているシーンである。
ヒロシマ、ナガサキという言葉は劇中で何度も出てきたし、オッペンハイマーという人物の視点から描ける日本の描写という意味では、十分だったのではないか、とも思う。もちろん、被爆者を身内に持たない、戦争の話も祖父から少し聞いただけの世代の人間の感じる範囲ではあるけれど。

『オッペンハイマーがその惨状を写真で見るシーン』に、情景は出ない、彼ら(研究者たち)の姿だけじゃないか。というのがもう一つ「描くことが出来たのに描かなかった」とされる根拠らしい。この言説もまた何度も見た。……のだけど、普通、何か「凄惨さ」を伝える時に実際のシーンではなくリアクションだけを見せるというのは非常に一般的な技法で、「筆舌に尽くしがたい程の形容」を表す表現の一つの筈だ。それを言ってる人たちはそういう表現を見たことが無いくらい他の作品を知らないか、文句を言いたいという結論ありきの人だと思う。
流される写真は、映画のフィルムに載せることができないほど、見せることができないほど、あまりにも凄惨で、科学者たちの想像を遥かに超えてしまっていた、ということは、あのシーンからそのまま(ノーラン監督の表現力以前の問題として)受け取ることができるものだと感じた。
勿論実際の写真などを用いてその被害を直接的に描く表現もあっただろうが、それは視覚に訴えるか行間を読む能力に訴えるかという表現の仕方の違いの範疇でもある。(そして、ノーラン監督の映画はそういう『説明』について元々かなり不親切だ)

感情的に、「もっと日本の原爆への被害と向き合った描写が欲しかった」と思うのは、一つの正しい(あってもおかしいものではない、という意)感想だ。ましてや、広島や長崎に住んでいたリ出身だったりと、その被害を身近に感じていた人。或いは、親族や身近にその被害者や、被害者の友人がいた人。そういった人々が「描写が足りていない」と憤るのも、感情としては尤もなものだと思う。
だけど、それは映画の評価として普遍のものではないし、関係が深いから日本の感想は重視されるべきだという話でもない。個人の感想としては大変頷けるけれど、それを映画の「評論」として語るのは、「私は被害者の側に立って物を見ているんです」というアピール以上のものではなく、(私が彼らの想定する『被害者』側だったら)その媚を不愉快に感じるだろうと思う。少なくとも(評論が自分の意見を『日本人の意見』と語る時)私は非常に不快だった。

「日本への配慮が無いからこの映画はアメリカ人の欺瞞だ」と断じる、論調の評論の皮を被った感想文は、それをアメリカ人と定義することが失礼だと思うし、原爆の被爆国という絶対的な被害者の皮を被ってそれを言う姿は卑怯だとも思う。やはりポリコレ的だ。

『世界を壊した』

日本の悲劇よりもオッペンハイマー自身にスポットが当たっている映画である。オッペンハイマーが日本のことをそこまで考えてはいなかった、というのは事実だろう。それはこの物語が『世界を壊した』科学者の話だったからだ。

念のため、実在の人物としてのオッペンハイマーの話ではなく(それを私が知る筈もないので)、この映画におけるオッペンハイマーのことである。

それは、正にこの物語の芯になる部分だろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E7%88%86%E7%99%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%A4%A7%E6%B0%97%E3%83%BB%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E7%99%BA%E7%81%AB%E8%AA%AC

物語中で論じられる「核爆発が起こると連鎖的な反応が起こり、最終的に大気や海洋を燃料として地球そのものを破壊する」という説がある。

あくまで可能性。wikiで恐縮だけれど、上記の記事から分かる範囲だと、学者によっては「取るに足らない、考慮に値しない仮説」に過ぎなかったらしい。一方でオッペンハイマーはこの仮説を大きく捉えたというのも史実らしい。

可能性というより、こんな仮説が実際にあったことに驚いた。知らなかった。
とても低い可能性とはいえ、科学者たちの中で仮説とされるくらいには意味のあるその「最悪の可能性」のある実験が、一国の独断でおこなわれたことを思うと末恐ろしい。個人的には、そこの言及が浅い(この可能性を推して実験に踏み切ることに、誰もが目を逸らしていた。将軍が直前にその恐れを知って同様しているのが印象的)ことこそ、大国の傲慢に近い印象を抱く。我々だけで実験をすると決めていいのか、という問いかけは一度も無かった筈だ。

現代に生きる我々は知っている通り、核爆発は起こっても地球表面を覆うような大破壊はおこなわない。当時としても可能性は「ほぼゼロ」とされつつも、「ゼロと言い切れない可能性で世界が滅ぶ爆弾を使えますか」と言われれば、躊躇いが生まれるのは自然だ。

この仮説を計算した式を持ってアインシュタインに会いに行ったオッペンハイマーは、和やかに連れと会話するアインシュタインに「この計算をどう見るか」と尋ねる。式を見た途端に顔つきが変わるアインシュタインの表情が良い。

映画の最後、そして物語冒頭の、オッペンハイマーとアインシュタインの会話。ストローズが自身の陰口であると断じた秘密の会話が、ここに繋がる。

「私達は壊した」

核実験は、地球の大破壊をおこなう可能性を実現しなかった。私達(科学者、原爆を作った人々)は、それを「地球破壊爆弾」にはしなくて済んだのだ。が、それでも「壊した」と語るその意味は重い。
水爆の開発は、結局押し進められた。それは『原爆が開発された』からだ。原爆が作られれば、それよりも強い兵器を。水爆が生まれれば、それよりも強い兵器を。そして作られた強い兵器は、力は、いつか振るわれてしまうことをオッペンハイマーは知った。広島に、長崎に、そして次のどこかに。

幸いにも、最強の原爆たるツァーリ・ボンバや水素爆弾、これらは『実験』のみの使用で終わっている。アメリカからすれば、それはあそこで原爆を使って戦争が終わったからこそ、であろうし、そういう側面を否定しきることは確かに難しい。
けれど、新兵器の研究は今でも進められている。技術は広まり、日本としては無視できないほど近い北朝鮮等の国にも、核兵器所持の疑いが持たれているのが今の国際社会だ。核兵器の使用は、大気にも海洋も燃料にして燃やすことは無かったけれど、代わりに人々に、国という大きな組織に、連鎖的な大きな爆発を生み出してしまった。

その最初の一発を作ったオッペンハイマーが言う、「壊した」。
壊してしまう「かもしれない」ではないその言葉こそ、メッセージとして受け止めなくてはいけない、この作品のテーマだったと思う。

伝記であり、物語

伝記の様だ、と冒頭で書いた。

「オッペンハイマー」はいわゆる“ネタバレ”が存在しない作品 知っておくべき史実を多数発見できる【コラム/細野真宏の試写室日記】
https://eiga.com/news/20240403/12/

この記事が面白い。
ネタバレの無い映画、なるほどと思った。実際、今回これを書くにあたって「ネタバレあるよ」と書いているし、ストローズがオッペンハイマーを陥れていた、というのは一応はネタバレ的な要素でもある。いわば、冒頭からつづくオッペンハイマーへの尋問のような聴聞会の、全ての黒幕だ。

が、ストローズの思惑を最初から知っていようといまいと、この映画を見る体験が損なわれることは殆どないだろう。それは見なくては分からないので、ネタバレあるよと書くけれど、正直史実をしっかり学習してから見ても感動は薄れないだろうと思う。

というか、登場人物が非常に多く、且つ人間関係が複雑なのだ。
オッペンハイマーの科学者としての繋がりや、教授としての立場、交友、共産主義的思想の持主としての人々との関わりに加え、褒められはしない女性関係まで加わり、あまりにも現実的に描かれる。伝記なのだからしょうがない。
創作の物語であればここまで複雑には作らないだろう。絶対に読者視聴者置いてきぼりになるので。ただこれは史実がベースで、実際に彼には様々な付き合いがあったのだ。はっきり言って、予習できるならした方が良い。私は一部の人物について最後まで顔と名前が一致しないで終わった。私はその辺り(顔と名前の一致)が苦手なのでしょうがないかとも思ったのだけど、一緒に見た友人も同じことを言ったのでやっぱり予習した方が良い。

さいごに

『原爆』を描く時に日本は必要不可欠だろう。だけど、『オッペンハイマー』を描くにあたってそれは必要だとは思わなかった。 、と上で書いた。

これは、『世界を』壊したテーマの為には必要な措置だったと思う。
日本を壊したのか、世界を壊したのかは、大きく意味が違う。
『原爆』に焦点を当てるのか、『オッペンハイマー』に焦点を当てるのかの意義は、まさにここだったと思う。

私個人の意見にすぎないけれど、このテーマを描くのであれば評論家たちの言う「日本の不在」は必要なことであったと思っているし、何よりこのテーマを描き切った以上、そこに日本が不在だったのかを決めるのはむしろ未来の話だとも思う。正直、その日本が日本がというものばかりが目に入った(Googleがね、Androidにトピックス流してくるんですよ)ので、変な色眼鏡で見てしまわないかとも思っていたのだけど、今はただそう思う。

このテーマを描き切った監督を尊敬するし、これを勝手に『原爆の映画』だと思い込んで日本の話に持っていこうとする評論家を軽蔑する。原爆実験のシーンまで見て「ばくはつがまぶしかったです」って言って帰ったんじゃないの?

3時間という長尺があっという間に過ぎる、情報も、表現も、そして受けてが得るべき意味も、非常に、そして異常なまでに濃密な映画だった。

今になって思う。祖父から聞く戦争の話は恐ろしくて、あまり好きではなかった。あまり好きではないから、聞き流していた。そんな昔のことを思いだして、少し後悔した。もっといろいろと聞いておくべきだった。本当に。
今はもう、祖父母は父方も母方も亡くなってしまった。後悔。


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