少年少女連続誘拐殺人事件:後編

1 

 すごい音が鳴るだろうと覚悟して、耳を塞ぎながら、できる限りに顔を遠くに話しながら、風船に針を刺す。パン!という鋭い音が鼓膜を揺らす、その覚悟を、「ぷしゅー」と気の抜けた音が台無しにする。いうなれば、そんな気分だった。 

 見掛け倒し? はりぼて? いや違う、とずん子の頭の中では適切な言葉を求めて、全く必要のない思考がふらふらと散歩気味だ。 
 肩透かし、そう、肩透かしは割と適切かもしれない。そう、まさに肩透かし。 

 今日ここに来ることが、どれだけ恐ろしかったか。また被害者の遺体を見なくてはならないのか。また、遺族の涙を見て,怨嗟の声を聴いて、眠れない夜を過ごすことになるのか。そんなことはない、今度こそだと理性ががなり散らしても、心についたその錆は広がっていくばかりで。そんな出来てもいない覚悟が、風の前の塵かとでもいうように、吹き飛ばされていった。 

 あれだけ憎く、邪悪な存在であった犯人たちが、今警官達の手によって、手錠をかけられて連行されている。 

「終わった……の……?」 

 実感など沸くはずもない。何せ、自分は何もしていないのだ。あえて言うなら、この逮捕劇の邪魔をしたとしか言えない。そんな邪魔すら意に介さず、わずか30分ですべてを終わらせた少女を見る。ハッカー「Purple」。そんな正体を名乗った結月ゆかりは、一つ年下の友人、紲星あかりの頭をなでている。 

「大丈夫、もう終わった。茜も葵も、すぐこっちに戻るよ」 

 と、誘拐された二人を心配して泣くあかりに話す姿は、先ほどずん子に向けた敵意……いや、無関心な姿とは対極、どこにでもいる優しい少女のものだった。 
 被害者の両親も、涙を流して喜んでいる。捜査責任者であるイタコとこの事件を終わらせたゆかりに何度も頭を下げている。この事件は本当に終わったのだと、その姿が知らせているようにも思えた。実感はわかない。長らく頭を悩ませ続けたこの事件は、突然現れた少女が何の感慨もなく終わらせた。それでも、終わったことに違いはない。今はその事実だけで良いのだと、静かにそう思った。 

2 

 それからの1年で、天才という言葉の意味を全く分かっていなかったのだと思い知った。頭が良いとか、思考力に優れるとか、高い先見性を持つとか、そういう『人と比べると優れている部分を有している』という話ではない。もっと根本的な、まるで違う生物を見ているかのような差を、思い知らされていた。 

 例えば、動物の『ゾウ』。野生の中で生きていくにあたって、人間の重くてもせいぜいが百数十㎏程度の質量と比較して、数千㎏にもなるその質量は圧倒的な肉体的アドバンテージである。それは生まれながらに持つ異種族との差であり、正に天から与えられた才能と言っていい。人間だろうと、百獣の王たるライオンであっても、どれだけ努力をしたところでその質量に及ぶべくもない。その差は努力の差ではなく、才能の差。 

 それと同じだ、とずん子は思った。天才という言葉は今や安売りされる薄いものになった。東大に受かれば天才、若くして大きな成果を残せば天才。そんな天才を目指して天才になるための本が書店に置かれる。きっと、彼らは見たことが無いのだろう。生物として、及ぶことが想像もできないようなものが、世の中には存在しているのだ。 

「ムーンシステムは一週間で作ったんだっけ?」 
「2日です。一週間はそのシステムの担当者を決めるのにお偉いさんがかけた時間」 

 きりたんの呆れ声も尤もだと思いながら、ずん子はサイバー犯罪対策課のオフィスを見渡した。あの事件があってから、この部署は大きく変わった。自分たちが何も掴めなかった情報を幼い少女にあっさり先を越された悔しさをばねに……ではなく、それが世界最高のハッカーと言われるPurpleだったからだ。 
 ITとは無縁の世界で過ごしていたずん子には知る由も無かったが、Purpleの活動は犯罪者を潰すことに始まり、今までも警察には何度も犯罪計画のリークがPurpleから送られてきていたのだという。 
 そんなPurpleは、警察機関に勤めるITに長けた人材たちにとっては正にアイドル。憧れの存在が、更には自分たちの技術指導までしてくれたというのだからその喜びようは尋常ではなかったときりたんは呆れながら語った。「あれじゃ幼女にテンションぶち上げてるおっさんの集団です。おまわりさんこっちです」とは1年前のきりたんの言である。 

「まあ、おかげで私含めスキルは1年前とは段違いですけどね」 
「天才ハッカーさんも謎ねぇ……。どうしてそこまでしてくれるのかしら」 

 ずん子の目から見て、Purple……結月ゆかりは、遵法意識の高い人という者ではなかったはずだ。そもそも、これまでの活動も違法なハッキング行為によるのだから、この見方に間違いはないはずだった。 

「私たちが推し量ることじゃないですよ。結果私たちは良い状態になった、でいいんです」 

 と語るきりたんに、呆れた目を向ける。そもそも、この妹はPurpleに対しては憧憬の意思が強い。アイドルのファンになったおっさんの集団と、内面的には変わらないのだ。あまり、Purpleに対する考え方で参考にしてはいけないとずん子は思った。 

 ふと、サイタイのオフィスの中央に置かれたパソコンの画面に、何かが映っていることに気が付いた。誰も何も触っていないのに、ずらずらと文字が入力され、何かの処理がおこなわれているように見える。 

「これは何?」 
「これ? ああ、それですか」 

 聞かれたきりたんは、ずん子の指さす端末を見て笑った。 

「それは私が今解析してる警察の人物DBの体系化プログラムです」 
「日本語で」 
「要するに、警察はたくさんの人の情報を持ってるのにそれを参照するのが下手糞ですよねって話です。で、できるだけそれがしやすくなるように、そのデータの山を整理したものを作ろうとしてるわけですね」 

 少し得意げですらある語り口だったが、ずん子は眉を吊り上げる。 

「勝手にやって良いの? それ」 
「ダメに決まってるじゃないですか。内部データを改ざんしてるわけではないですけど、そもそも持ち出しちゃダメなものを持ち出して実験してみてるわけですからね」 

 悪びれる様子も無く笑ってそんなことを言う妹に、ずん子はため息をついた。 

「もう……ばれないようにしてよね」 
「え?」 
「え、って何よ……」 

 きりたんの心底意外そうな声に、ずん子は驚いて不満気な声を返す。 

「何よって、気付いてないんですか?」 
「だから、何かおかしいこと言った?」 
「これは驚きましたね。ジョークでもないんですか。姉さま、少し前まで自分が規則にめっちゃ厳しかったの覚えてます?」 
「ああ……そのこと」 

 分かってましたよ、というようにずん子は答える。 

「そうね、たしかに、前の私なら問答無用で怒ってたと思うわ」 
「というか、問答無用でイタコ姉さまに伝達されてましたよ。変わりましたね」 
「変わった……そうかもね」 

 ずん子と言えば、警官の中でも有数の規則に厳しい一人だった。正義感故、悪を許さぬ心故。同僚たちからは些かの疎ましさと、そして尊敬を受けていた気質である。彼女の前で悪事を企もうものなら、必ず咎められたはずなのだ。
 しかし、今のずん子から出てきた言葉は「ばれないようにしてね」。ずん子を少しでも知っていれば、それはあり得ないとすらいえる言葉であった。 

「姉さまに融通が利くようになってくれてありがたいですよ」 
「釈然としないわ」 

 ずん子はそう言いながら、自分の変遷を思う。いつから、自分の中のその気質は変化していったのだろう。 

3 

「あなたがやっているのは、ただの邪魔」 

 1年前に、結月ゆかりに言われた言葉だ。突然現れて「自分がこの事件を解決する」と言い出した小学生を咎めるのは、当たり前のことだった。それは、相手がハッカーだろうと関係の無いこと。 
 しかし、その時ばかりはそれは正解ではなかった。彼女の言うとおりにやらせることこそが事件解決への近道であり、自分がやっていたことは、ただそれを邪魔していたにすぎない。不快そうな顔でそう言われたとき、ずん子は当然ながらそれに反発の感情を抱いた。何だこの子供は、生意気で礼儀知らずで、と。事件が終わってからも、何度も反芻されるその時の記憶に、その都度大人に対しての礼儀など一切存在しない少女の物言いを否定する意識が頭を埋める。 
 それが変わったのは、結月ゆかりを取り調べていた時のことだ。 

「あなたには、今回の事件以外でもハッカーとしての違法行為の疑いが向いているわ。当然よね、Purpleだっけ?何度も違法行為をしたというハッカーを名乗ったんだもの」 

 今思えば、なんとも大人げない物言いだったことか。一警察官が、小学生の過去の行いを得意気に攻め立てているのだ。情けないことこの上ない。しかし、それだけ言われた言葉にムキになっていたのだろうと、今なら分かる。 
 そして、当時の結月ゆかりは、その疑いをこう言って一蹴した。 

「それで、証拠はつかめた?」 

 掴めるはずもなかった。きりたんという警察でも有数の技術を持っている人間が、「彼女のハッキングは別格だ」と断じているのだ。Purpleがハッカーで、様々な違法行為をしたとされていて、そして今目の前にいる少女がPurpleを名乗ったとしても何一つ逮捕の決め手になるものを得ることができないくらい、違うのだ。ずん子は、そんな態度のゆかりに悔しげに歯噛みした。 

「違法行為を見逃せないのは性格なんですか? でも、考えた方がいいですよ」 

 ゆかりは淡々と語る。 

「違法行為を許せないのが行動原理ですか? それとも、他に行動原理があるんですか?」 
「行動、原理……?」 
「大事なのは、何故その行動をとるかですよ。目的は何ですか?犯罪そのものを許せないというのが行動原理だとしなら、あなたの行動は納得できますよね。でも、私が見る限りでは、そうではないと思うんですよね」 

 何事もないかのように、ゆかりはそう言った。ずん子はその言葉を反芻する。自分の行動原理は、犯罪行為を許せないということでは、ない? 

「なら、私は何を目的にしているって言うの?」 
「それを私に言わせるんですか?」 

 結局、その解は聞けなかった。子供にそれを言わせることは、大人として許されない気がしたのだ。代わりに、それからじっくりとゆっくりと、ずっと、考え続けることになった。ずん子の中でその答えが出たのは、その1か月後のことだった。 
 きっかけは、そう。連続誘拐殺人事件。その犯人が、過去4件の犯行を否認していたことだった。 

「そうなると思ってたわ」 

 とは、イタコの言。この琴葉茜、琴葉葵の誘拐事件は現行犯。言い逃れはできないのが分かっていたのだろう。犯行を認めている。しかし、過去の4件については自分たちの手によるものではないと言い出したのだ。 

「当たり前だわ。過去の4件は警察を欺き切ったんだもの。そして、その4件を認めてしまえば、死刑の可能性が高い。認めなければ、誘拐事件一つ。そりゃ、誰でも言い逃れをしたがるところでしょうね」 

 言いながらも、イタコは証拠になりうるものの精査を続ける。確かに過去4件で犯行を止めることはできなかったが、しかしだからといって犯人が分かっている今もなおその証拠をつかめないこととは別問題だ。イタコもずん子も、そして他の警察官たちも、一時期の消沈が嘘のように再び活力に満ちていた。だが、 

「知らねえな」 
「知らないが通ると思う? 4人も殺しておいて、償わないで逃げ切れるほど、この国は甘くないわ」 
「だから、殺したのは俺たちじゃねえって。あー、要するに模倣犯さ。警察を出し抜いたかっけえ犯人をマネしたくなったんだよ」 

 と、らちが明かない。 それを、取調べを受けに来ていた結月ゆかりに、見抜かれたのだ。 

「苦戦してるみたいですね。彼らの自白」 
「……取り調べをしているのはこっちなのに、私からどんどん情報を得ようとしないで」 
「情報を得ようとなんてしてない。わざわざ聞き出さなくても分かってるもの」 
「どうして知られちゃうのかしら。天才って、未だに実感が分からない……」 

 ずん子は、目の前の天才を見て、そしてふと思う。今の問題である、犯行の否認を、どう崩せばいいのか。その糸口を、彼女から得ることはできないだろうか。確かに、この不敵で失礼な少女ではある。しかし、背に腹は代えられない。プライドも、自分の感情も、この目的の前には意味など持たないではないかと、自分の中で何かが訴えかけていた。 

「ねえ、結月さん」 
「いいですよ」 

 ずん子が声をかけた途端、ゆかりはさらりと答えた。 

「えっと……私、まだ何も言ってませんけど」 
「ですから、犯人たちの自白への協力ですよね? 私も友達を傷付けられて、不愉快に思っていたので、かまいませんよと。ただ……」 

 心底不快そうに言いながら、ゆかりは一つの懸念事項に触れる。 

「私が直接彼らに自白させるにせよ、刑事さんに自白させるすべを与えるにせよ、あなたの嫌いな違反行為が絡みますよ。それでもいいですか?」 

 確かに素人を取調官にすることは色々とルールに抵触する。しかし、自白する術を与えることにすらそれが絡むというのはどういうことだろうと思う。そんあ疑念を見透かしたように、ゆかりは言葉をつづけた。  

「言い逃れ出来ない証拠をお渡しすることになります。その入手手段には、おそらく私はパソコンを使うことになると思うので」  
「なるほど、ね」  

 ずん子はそう答えて、少し悩んだ。善いのだろうか。いや、”良い”筈はない。警察は警察の力で犯行を立証するべきだし、違法な行為で発覚した証拠に証拠能力が無いことなどは知らないでは済まされない重要事項。正義を重んじる警察官として、出すべき答えなど、悩むべくもない。断じて、そのような行為を認めるわけにはいかないのだ。答えなど、初めから決まり切っている。 

4 

「お願い、協力して」 

 ずん子は、そう答えた。 
 協力を求めてはいけない理由はいくらでもあった。いくつでも諳んじることができただろう。しかし、そんなすべての理屈を叩き潰す、大きな感情があった。 

「許せないの。あいつらが」 

 涙を流した遺族を見た。凄惨な遺体を見た。それを嘲笑う犯人たちは、今も警察を前にへらへらと笑っている。それが許せない。 
 ずっと、自分は「悪いことが許せない」のだと思っていた。そして、「悪いこと」とは「ルールを破ることだ」と。それは「間違い」ではないことで、そして一番簡単な基準であったから、いつからか、それ以上考えることをやめてしまっていたのだろう。善悪の基準を他社が決めたルールに基づけば、自分の責任ではなくなる気がしていた。浅はかな事だ。誰が決めたルールであっても、それに従うことを決めるのは自分自身なのに。自分だけは守られた円の中で、安心しようとしていたのだと、ようやく気が付いたのだ。 

 自分が許せないのは「悪いこと」。それは間違いない。では、悪いこととは何か。まだ、ずん子の中でそれを言葉にできるほど、体系立てられてはいない。しかし、それでも一つ確信があった。あの犯人たちは、悪人だ。自分にとって、許せない相手だ。そういう存在に然るべく罰が下って欲しい。その為には、まずは犯した罪を正確に司法の下にさらさなくてはいけない。その為になら。 

 そう、その為になら、『軽度の悪事』は些末なものだ。悪事を捌くための悪事を、全て目の敵にする必要はない。 

「それ、結構大変ですよ」 

 向かいの少女が、その思考に口を挟んだ。 

「それ……? 私、思ってること口に出してた?」 
「顔に出てましたよ」 

 口に出していたわけではないらしい。結月ゆかりは、表情を見て相手が考えていることをぴたりと当てたのか。顔に出る、程度の情報でそんなものが分かるなら警察の仕事も楽になることだろう。簡単そうに言うが、容易いこととは到底思えなかった。しかしそれでも、今更この程度では驚かなくなったのも事実。ずん子は落ち着いて尋ね返した。 

「大変って?」 
「だって、今度は考えないといけないでしょ? 何は見逃せて、何は見逃せないのか。自分で考えて、自分で決めるの。大人も子供も、みんなそういうのは嫌がるでしょう?」 
「そうね。でも、それは一般的な話よ」 

 ゆかりの言葉に、ずん子は即答する。 

「自分の責任で自分の行動を決めることを、私は嫌がらない。何を見逃すかも、何を見逃さないかも私が決めるわ。私は、『自分が許せないと思う悪人』を許さない。その為に、警察官になったのね」 

 ゆかりの目が見開かれた。驚いているのか、とずん子はそれに驚く。彼女が驚くのを、初めて見た気がした。 

「私、変なこと言ったかしら」 
「いえ……。そうか、そういうこともあるんですね」 

 一人得心がいったように、ゆかりは少しぶつぶつと小さな声で何かを言い、そして顔を上げた。 

「じゃあ、行きましょうか」 
「行くって、どこに?」 
「取調室ですよ。丁度3分くらい前からかな、リーダー格の男の取り調べが始まってますよね。さっさと潰しておくに限ります」 

「結月さんが取調室に入ってから2分くらいでしたっけ」 

 当時のことを思い出しながら、きりたんは少し楽しそうに言った。 

「あのリーダーさん、あっさり全部自供しちゃって。そういえば聞いてなかったですけど、いったい何があったんです?」 

 あの時結月ゆかりが入った取調室で起こったことを知っているのは、ずん子と、その時担当していた取調官、そしてその取り調べを受けた犯人本人。敢えて言うなら、その後に間接的に話を聞いた、イタコが入る。きりたんはそれが気になってはいたが、わざわざ聞くのも悪い気がして、しばらく話題にすることは無かった。 

「ああ……そうね。あんまりぺらぺら話すことじゃないんだろうけど」 

 ずん子は当時の様子を頭に思い浮かべる。あんな取り調べは、後にも先にもあの時だけだ。 

「すごかったわ。淡々と……相手のことをしゃべっていくの」 
「はい?」 

 きりたんにはよく意味が分からない。 

「相手のことを喋るって何です?」 
「つまりね、こう……。こほん。」 

 説明をしようとして、しかしそれを諦めて、ずん子はきりたんのことをじっと見た。 

「な、なんです?」 
「東北きりたん。18歳。姉が二人いて、姉妹3人とも警察官。警察に入ったのは勧誘からで、通常とは異なる経緯で入隊。現在はサイバー犯罪対策課のエースとして活動」 

 ぺらぺらと、すらすらと、他人のプロフィールを、原稿を読むように語る。 

「小中学は割と不登校気味に過ごす。好きな科目は数学。苦手な科目は国語と社会、特に歴史。趣味は映画鑑賞。好きな食べ物はずんだ餅」 
「きりたんぽです」 
「好きな色は黒、嫌いな色は青……なんて、表面的な話をなぞるとこんな感じ?」 
「はぁ、それが何だというんです?」 
「ねえ、どう思う? こうやって語られるプロフィールが、自分のどんどん深い所に触れられていったら。昨日食べたもの。今まで行った旅行先で気に入っているところ。学生の頃の失恋。行きつけの美容室。今この瞬間思っていること」 
「……」 

 きりたんは押し黙る。言わんとすることが分かったのだ。

「私には知る由もないことだったけど、きっとそうやって話されたことは全て事実だったんでしょうね。怖いでしょうよ。初対面の相手が、自分の誰にも話していないようなことをぺらぺらと当たり前のように知っている。で、最後に告げたの。『逃げられると思ってる?』って」 
「脅迫じゃないですか……」 
「秘密の暴露さえさせればこっちのもんよ」 

 犯人はその後、遺体の処理方法やその処理に使った場所などを自供。この上なくスムーズに、全ての事件は解決に向かったという。裁判はまだ続いており、求刑は死刑で争っていると聞く。裁判になってしまえば警察はできることなどなく、今はただその結果を待つだけとなった。 

 思えば、あの日からなのだろう。自分が、事件の解決のために強引な手段を取るようになったのは。それを是としたのは。初めの頃は感じていた抵抗も、今はほとんど感じない。それが良いか悪いかを判断するのは難しいことで、そして思い悩む必要のないことでもある。 

「まあしかし、極端に振り切りましたよね」 

 動きの止まったプログラムに「待ってました」と確認を始めながらきりたんは言った。 

「まあ、我ながらね。でも、自分の思う正しさが今はちゃんと意識できるようになったの。だから、私は迷ったりしない」 
「結月さんに感化された、なんて言ったら怒ります?」 
「怒らないわよ。不本意だけど、事実ではあるしね。それでもいいの。私は、私の中で正しいと思えることをする。必要があると思えば、……悪いことでも、やるようになった。ただ、それだけよ」 

 あの時……あの誘拐事件の時、決まりを守ることの正しさにとらわれた自分は、人質救出のための道筋に転がる邪魔な障害物でしかなかった。それは、在りたい姿ではない。自分の求める、そうありたい自分の形からは、程遠いものだった。 
 気に食わない態度の少女だと思う。文句をつけるのなら、いくらでも付けられるだろう。それでも、自分の在り方を考える機会を得られたことには、感謝していた。 東北ずん子という刑事が功績を上げ、立場を強くしていくのは、丁度その2ヵ月後頃から。元来の行動力や正義感に、一歩を踏み込む判断力が身について、次々と事件の解決に貢献を果たす。その陰で、強引な操作方法を揶揄されることは幾度となくあったが、しかしそれが表立って責められることは一度も無かった。

 後に、ある警察幹部は語る。「あの連続誘拐事件は、東北姉妹の成長の糧になった」と。その成長を一番著しいものにしたのは、間違いなくずん子だった。

6 エピローグ

 そんな天才少女の死の報は、十分な前触れと説得力を伴って、しかし突然やってきた。結月ゆかりが行方不明、音信不通になっていたのは知っていた。しかし、結月ゆかりの行方不明を心配できる人間がいただろうか。巨像の心配をする蟻がいないように、結月ゆかりを心配する人間などやはりいなかったはずだ。いなくなったのは、彼女がそうしようと思ったから。連絡が取れないのは、彼女が連絡する気がないから。何も知らない人は、それを妄信と呼ぶだろうか。あるいは、狂信かもしれない。 

 しかし、彼女を知っていればそれこそが適切であり、心配など無意味だと思う方が正常だった。少なくとも、その知らせを受けるまでは、そうだった。 

 あるいは。あるいは、とずん子は考える。一瞬、脳をよぎる疑惑は、いくつも存在する。どれだけ遺体が本物だと科学が証明しても、信じがたい気持ちはいくつもの仮説を組み立てる。 

 彼女は、本当は死んでいないのではないか? 

 一番ありえそうだと思った。何らかの理由で、死を偽装したのではないか。普通に考えれば、あまりにも非科学的で荒唐無稽な、妄想かもしれない。しかし、それに説得力を持たせられてしまうのは彼女の強さ故である。 

 それか、もう一つ考えうるのは。彼女がそうしようと思ったからそうなったのだという仮説。すなわち、彼女は自ら死のうとしたから、死んだのではないか。 

 事件は海外で起こり、ただただ現場に残された証拠からその遺体が結月ゆかりのもので、間違いなく死んだのだとされるレポートを送り付けられただけ。何も実感がわかず、真相の究明を目指すような段階ですらなかった。 何故海外にいたのだろう。あれだけ日本の友達のことを大切に思っていたのに。何故、音信不通になったのだろう。彼女の友達は、一様に「結月ゆかりは結構さみしがり屋」などと話しているのに。何故、何故、何故……。

 彼女の死は、殺し屋が絡んでいるのだという。ダークウェブなどというふざけた名前のよく分からない空間では、ドラマや映画のような殺し屋などというものが、蔓延っているのだと。そして、それに彼女は殺されたのだと。恩義のある少女が殺されても、ずん子にその仇討ちのような意識はついぞ芽生えなかった。彼女を殺せる存在がいるなら、自分の手には負えないと分かっていたからだ。
 しかし、彼女の周りの環境は変わる。その死から1年が経ち、世界は急転直下の展開を迎えることになった。彼女を殺したとされる殺し屋の来日疑惑。温厚で泣き虫で、ハッカーになる実力などなかった筈の少女がハッキングに手を染めた疑惑。突然発生した水没車内での変死体を自殺で片付けようとする上層部。そして、結月ゆかりが遺した警察のセキュリティシステム、通称『ムーンシステム』の突然の解体。長く警察を続けていたが、これほどに色々なことが同時に起こったのは初めてのことで、何か陰謀めいた、違和感が首をもたげていた。

 一体何が起こっているのだろうか。この違和感を追った先に、彼女の事件の真相が、何かわかるのだろうか。

 まだ誰も知らないその行く末に思いを馳せながら、今日も警察制服を身にまとう。自分はどうしたいのだろうか。否、決まっている。悪いことを、許したくないのだ。その為に、動くに過ぎない。

 ずん子はこの後、知ることになる。身近なある人物の命の危機を。そして、それが一人や二人では済まないことも。

 最後は悔やむだろう。その危機に、彼女が間に合わないことを。