少年少女連続誘拐殺人事件:前編

1 

 幼い子供が誘拐、殺害される。 

 そんな邪悪な事件が起こったのは、どこまでも平和に見えた、ある昼のことだった。学校帰りの少女が誘拐され、その親に身代金が要求された。警察への口止めを真に受けた両親は、要求された300万を何とか工面して、約束の引き渡し場所へと向かったという。 

 黒いジャンパーにマスクとサングラスの男。それでも人通りの少ないビルの裏口ではその姿が特別目立つことは無かった。男は金を受け取ると、「1時間以内に子供を届ける」と言って去っていったと、金を手渡した父親は後になってそう話した。その言葉を信じる事しか出来なかった両親は祈り、縋るような気持ちで1時間を過ごしたことだっただろう。果たして約束通り、子どもは両親のもとに送り届けられた。ただし、その体はばらばらになって、赤いリボンで飾られた段ボール箱に詰められた状態で。 

 この猟奇的な、地獄のような事件は、即座にセンセーショナルに報じられた。猟奇殺人、狂人の犯行、サイコパスか、などの文字列が躍る紙面。インターネットには無責任な書き込みが溢れ、犯人像は各々が勝手に想像する、邪悪な要素のキメラのようになりつつあった。 

「何としてもこの犯人を捕まえろ!」 
 そう叫んだ男は警察官で、進まない捜査に苛立ちを隠せずにいた。犯人の手がかりは、直接犯人とやり取りした被害者両親の言葉のみ。金を手渡したのは父親だというが、しかし動揺していたという彼は車のナンバーを見た記憶も無く、分かったのは犯人が男であることと、身長が170㎝程度であること。そして自動車が好きだという彼が話す限り、有名なメーカーが数年前に出した、極めて一般的な、薄いグリーンのワゴン車に乗っていたということだけ。子供を失った両親からの通報があってから既に1週間。現場付近の監視カメラをくまなく探して見つけ出した薄いグリーンのワゴン車の足取りが完全に途絶え、ついに手掛かりと言えるものが無くなったところだった。 

「狂った野郎だ! イカレ野郎だ! なんでイカレ野郎1人捕まえられねえんだ!」 
 この時の犯人像は、誰もがそう叫ぶものだったのは無理もない。確かに、警察という組織は今までにも誘拐殺人という事件を見たことがある。しかし、要求した身代金を得ていて尚、その子供の無惨な死体を親の元にプレゼントのように送り届けるなどという邪悪な所業は、少なくともその場にいた警官たちの誰も、これまでに聞いたことも無いものだった。 

「酷い、事件だわ」 
 東北ずん子もまた、警察官の一人としてこの事件に関わることになった一人である。そのあまりの凶悪さと、プロファイラによる『この犯人はおそらく同じことを繰り返す』という予測、そしてマスコミの熱の入った報道に突き動かされた形になるが、異例の規模の捜査体制となったことで、まだ新人の身でありながらこの事件に配属された。 
 元々小さい町の署員である。大きな事件があれば、全署員が対応することになるのは分かっていたが、まさか自分が配属されてすぐにこんなことが起こるとは、彼女も思ってもみなかった。 
「絶対に……、絶対に犯人を捕まえる」 
 自分の中にある、正義の血が騒ぐような気がした。昔から『真面目な委員長』のステレオタイプとでも呼べそうな性格をしていた彼女にとって、警察官という仕事は正に天職のように輝いて見えていた。世の中にはルールがあり、それを守ることで平和を、安心を作り上げている。それを害する者がいるのであれば、その身を賭けて戦う覚悟が、彼女にはある。 

「ずんちゃん、行くわよ」 
 会議を終えて部屋を出た彼女を早速呼ぶ声。実の姉、イタコの声だった。東北一家と言えば、いわば警察の一家。親も警察で、更にその親も警察だった。今は、姉が現場でのペアとなって仕事を教えてくれている日々だ。 
 パトカーの扉を開き、乗り込む。直前に買った缶コーヒーに口をつけるイタコを横目に、ずん子はぼんやりと口を開いた。 
「この犯人、本当にまた同じようなことをするんでしょうか」 
 プロファイリングは、当然だが確実なものではない。ずん子からすれば、こんな狂った犯罪が繰り返されるだなんて、あまりにも現実感のない話だった。しかし、イタコはその疑問にさらりと答える。 
「まず確実に、するでしょうね」 
「ど、どうしてそんなことが言えるんです?」 
 赤信号になり、車を止めながらイタコはゆっくりとずん子の方を見て尋ねる。 
「逆に、どうしてもう起こらないと思うの?」 
「い、いくら相手がイカれた……頭のおかしい奴であったとしても、あれだけのことをすれば普通、警察に捕まることを恐れるでしょう? それに、いくら異常者でも、あんなひどいことを何度も……」 
「逆よ、逆。彼……あるいは彼らは、大仰な犯罪をした。普通に考えてみて? お金が欲しいなら、殺す意味はほとんどなかった。お金を得てなお、あんな殺し方をしたのは何故だと思う?」 
「何故って……異常者がやることなんて、分かりません!」 
「いいえ、分かるものよ。相手が異常者でもそうでなくても、必要のないことをする動機はいつだってシンプルなもの。人がテレビゲームで遊ぶのは、楽しいから。友達と一緒に鬼ごっこで遊ぶのも、楽しいから。する必要がないことに労力を割いて時間を割いて、そんな風にするのは、いつだって面白いから。それが好きだから」 
 イタコは淡々と語る。それが当たり前だというようなその言い方に、ずん子は声を荒らげた。 
「そんなばかな! た、例えば、子どもが反抗したから殺してしまった、ということだって十分に考えられます! そういう可能性の方が……!」 
「じゃあ、わざわざリボンを付けた段ボールに詰めて送り返したのは腹いせ? 腹いせ程度でそこまで邪悪な嫌味ができるなら、見下げ果てたものだわ」 
「……! い、異常者のやることなんて……」 
「異常であれ正常であれ、私たちは『理解できない』ではいけないのよ 理解して、その先を見据えなくては。この犯罪を何としても止めるために」 

 賢明な捜査だった。新人のずん子には、永遠とも感じられるような、気の遠くなるような量の仕事、が山のように積み重なっている。聞き込みや調査に、それによって分かったことを共有するための資料作成に会議。 
 その翌日、捜査開始から実に3週間が過ぎたその日、初めての手がかりとなる映像が、イタコによって警察にもたらされた。彼女の懸命な聞き込み捜査によって、当日のアリバイ証言が嘘であったな人物を発見したのだ。事件当日に盗撮をおこなっていたその男は、淡々と矛盾を指摘するイタコに恐怖し、その犯罪を自供した。問題はその盗撮映像。片隅に、これまであらゆる監視カメラ等を精査したにも関わらずどこにも映ったことのないナンバーの車が映っていたのだ。 
 それは、薄いグリーンの一般車。誘拐事件があったとされる日の、現場と思しき場所周辺での映像だ。ここを車が通ることは珍しくないが、普通に走るのであれば、その近くに3か所も設置されていた防犯カメラのどれかに映っているのが自然なものだ。それが、どのカメラにも映っていなかった、供述にあったのと同じ車種の車が、この盗撮魔の映像には残っている。 
「意図的に監視カメラ、防犯カメラの類を避けたルートを使っていた、ってことね」 
 捜査会議に参加する警官たちの目はぎらついていた。初めての手がかりだ。これが糸口になるぞ。そういう熱が、室内に充満する。 
「まさか盗撮魔が犯行中だとは知らず、映り込んだと。よくやった!」 

 僅かな希望ではあった。しかし、これは確かな糸口。まさか犯行グループも、こんな所に手掛かりが残っていたとは知らないだろう。ナンバーまで映り込んでいる高画質っぷりは、ずん子は諸手を挙げて盗撮魔の拘りに感謝すらしたい気分だった。 

2 

 犯行車両のナンバーが判明。捜査開始からの長い日々の中で、初めて捜査本部に笑顔が生まれた、その僅か翌日のことだった。 

 第二の事件が、発生した。 

 第一の事件と同様に、子供を誘拐。両親に現金を要求し、金を受け取ったら死体を送り付ける。何も変わらない、極悪非道な事件。 
 その翌日には車のナンバーが偽装されたものであることが判明し、警察組織全体が絶望の底に叩き落とされたのは、誰の目にも明らかな事だった。マスコミは第二の事件を防げなかった警察を厳しく糾弾。「総力を挙げてあたるべき」という当初の論調は、市井や強いキャッチで煽る週刊誌のフィルターを経て「無能な警察」「犯罪者に住みよい日本」などとまで煽られる始末。その結果、上層部はとうとう事件の解決よりも体面を保つことに注力し始めた。 

「私が、ですか」 
 イタコは感情をこめないように気を付けながら一言だけ口を開いた。目の前の、自らの立場に固執する上司に、この侮蔑の感情を悟られればまたくだらない説教に時間を奪われる。 
「そうだ。名誉なことだろう。君はこのような大事件を担当するにはまだ若いが、しかし優秀だ。そして君のような将来の幹部にこそ、早いうちにこういった難しい現場を経験させてやろうという意見が出てね」 
「ありがたく、その任を頂戴致します」 
 イタコは、第二の事件の2日後にこの連続誘拐殺人事件捜査本部の責任者に任命された。 
 初めこそ模倣犯である可能性が指摘されていたが、その可能性は低いとイタコは考えていた。その後次から次へと第一の事件との共通点が見つかり、同一犯であると断定しての捜査が進められた。 

「姉さま、責任者に任命されたって……。さすがです!」 
「はぁ、ずんちゃん……あなたは素直ね」 
 姉の全体未聞の大抜擢を、せめてもの朗報にしたいずん子の期待を、イタコは呆れた目で打ち砕く。 
「こんなの、対外アピールと責任者にしてトカゲのしっぽにしたいだけよ」 
「そんな……」 

 これはもう解決できない。出来るとしても、何度も何度も事件を起こされ、何十人もの犠牲を払ってからになる。上層部はそう判断したのだろう。イタコを「若きホープ」として、責任者に据える力の入れようをアピールしつつ、犠牲が増えて責任を追及されたら責任者として切り捨てる。『責められたくないし、責任も取りたくない』という『お偉いさん』の我儘を解決する、お手軽な手段だったわけだ。 

 二度目の事件にもやはり証拠はなく、何より大きかったのは初動の遅さだった。犯人グループは身代金の要求から人質の返還までに3日間待たせており、今回の被害者はそれに律儀に従い、人質のわが子が死体となって返されるまで警察には一切連絡をしなかった。「まさかニュースで見た誘拐犯だとは思わなかった」とのことだ。 
 それ故に、身代金の受け渡しの車が映っていたかもしれない監視カメラの映像は各店各々で削除した後であり、前回以上にどこから手を付ければ良いのかと、組織全体が意気消沈することになった。 

3 

 第三の事件が起きたのは、それから1か月後のことだった。犯人たちが、明らかに調子に載っているのが分かった。テレビ局に、人質にしていた子供を殺害する様子を収めた動画を送り付けたのだ。警察に届けられたそれに残る機械で変えた犯人たちの声は、しかし楽しんでいることが明確に伝わる邪悪なもの。流石のテレビ局も放送するどころか、最後まで見られたスタッフもいなかったと、届けに来た担当者が真っ青な顔で話している。ずん子を含めた新人はもちろんのこと、ベテランたちですら思わず部屋から逃げ出した。この捜査に関わった新人の7割が、この映像が原因でこのあと退官したという噂も流れたほどだ。 
 片手で数えられる人数しか残らなかったその部屋で、唯一残っていた女性警官のイタコは、その日から1週間以上、床についても殆ど眠れない日々を過ごしたという。夜半に目を覚ましたずん子がイタコが起きていることに気が付き「大丈夫か」と声をかけると、「どうなのかしら」と返した。後日、彼女は当時のことを「怒りと悔しさで力が入り過ぎて、ずっと視界がちかちかと点滅していた」と話している。 

 その映像からおよそ2週間後に、ついにイタコが過労で倒れ、捜査本部は混乱に陥った。進展しない状況の中、病院で目を覚ましたイタコは、自身の横に座る人影に気が付いて声をかける。 
「きりちゃん」 
「無茶をし過ぎですよ」 

 三女のきりたん。数多くいる警察官の中でも異色な経歴を持つ彼女は、実は非公式な採用過程を経た警察官である。趣味でハッキング行為に手を染めていた彼女は、2年程前のある時、姉の仕事が行き詰っていることに気が付き、その証拠集めを裏でこっそりとおこなっていた。集めたその証拠を匿名で姉、イタコのPCに送りつけ、事件はその証拠から方針転換をした捜査によって無事に解決した。 
 その後およそ半年ほど、この「匿名の協力者」は謎に包まれていた。が、ある時に別のハッキング案件できりたんに疑いがかかった際に、その事件自体は潔白であったものの、その協力者の正体も明らかになったのだ。 
 その腕前は凄まじく、この時のサイバー犯罪に対して警察が打てる全ての手段を、彼女一人で賄えるほどであり、警察組織から直々に特別な枠での採用を打診されたのだ。彼女は別段やりたいことがあったわけでもないからその提案に乗ると言い、今は3姉妹で警察官の仕事をしている。 

「お偉いさんから伝言です。『過労死などできると思うな。2日間休みを与えるので無理矢理でも動けるようにして戻ってこい』とのこと」 
「はぁ……言われなくたって、2日間も休んでられないわよ……。それで、お願いしていた調査結果は?」 
「一昨日に言われた、誘拐グループのやつですよね。さっきメールしときましたけど、見ますか?」 
「おねがい」 
 鞄からノートパソコンを取り出すと、きりたんは手早く調査結果と題したファイルを開いて画面に映す。 
「姉さまの予想通り、相手はこっちの技術に通じてるのがいますね。それで監視カメラの情報とか、誘拐する相手の情報とか、それから警察の情報まで得ていると考えていいでしょう」 
「……警察の情報も? 今はあなたが管理してくれているのよね。相手はあなたよりも凄腕なの?」 
「一概には言えませんよ。ただ、私の技術の善し悪しなんて関係ありません。もし私が悪徳ハッカー……要するにクラッカーですけど、もし私がそうなら、そんな警察のサーバーなんて狙いませんから」 

 こともなげに言う妹に、怪訝な目を向ける。ITの世界には詳しくないイタコには、よく分からない話になってきていた。 
「まあ、大事な情報は結局そこですけどね。ただ、あそこは私もセキュリティには関わりましたし、破ることができるとしても、痕跡くらいはあって欲しいもんです」 
「じゃあ、どういうこと?」 
「警察の秘密のデータは、あくまでただのデータです。パスワードを知らないと、アクセスできないただのデータ、文字列です。データは誰かが見ることで初めて意味を持ちます」 
「それは、そうよね」 
「だから、私だったら目標のサーバー本体ではなく、そこにアクセスする人間を狙います」 
「あ……!」 
「セキュリティ意識の甘そうな奴を探して、そいつのPCに侵入。それが出来れば、あとはそこから本命のサーバーのパスを抜き取って、おしまいです」 
 やれやれ、というように首を横に振りながら、きりたんは資料のページを送る。 
「でも、そうだとしたら……」 
「姉さまの思っている通りですよ。私はそう思って少し抜き打ち検査をしておきました」 

 思っている通り。それは正に、「防ぎようがない」というもので、気が遠くなるような気がした。 
「この通り、大事な情報にアクセスできる者ですら、ウイルス感染の痕跡がこれだけ出ています。実に3割以上の人員に再教育が必要ってことですね」 
「彼らに落ち度があったと?」 
「無いと思います? 相手がそれこそPurpleのような天才中の天才、望んだことは全部叶います、みたいな存在でもない限り、ハッキングの手段なんて地道なものです。彼らのメールボックスには開封済みのウイルス添付メールがしっかりと入ってましたよ。添付ファイルは書類に見せかけたウイルスデータで、要は3割以上の人間がこれを開いてくれちゃったってこと」 
「それは……再教育が必要ね」 
「今はパスワードを変更し、また該当の職員は一時的に接続の権限を剥奪しているので多少はマシな状態になったかと」 
「そう……。ありがとね。これで、連中の犯行が止まればいいのだけど……」 
「言っちゃいけないことかもしれませんが、敢えて言いますよ。ここで犯行が止まったら、あいつらは捕まりませんよ。今の段階では、証拠になるものなんて何もないので」 
「ほんと、そういうこと私以外の前で言わないでね」 

4 

「とはいえ、まさかここまでやられているとはね。ここまでやって、ようやく犯人たちも新しく私たちの情報を手に入れられなくなったわけか」 
 これで、事態は少し落ち着くはずだ。どちらかといえば悲観的な考え方が多いイタコも、そう思った。今までは難なく情報を抜き取っていた犯人も、相手がいきなり大きく対策をしてきたのであれば、今後の行動を考え直すだろうとある種の楽観的な思いを抱く。
 だからこそ、その翌日に発生した4件目の事件には、動揺を隠せなかった。きりたん曰く、一度乗っ取られたPCから派生して、警察関係者不特定多数の端末までが犯人たちの支配下に置かれていたらしい。「先に見ておくべきでした」ときりたんは嘆くが、しかし無理のないことだった。軽率にファイルを開いた職員を特定してそのもののアクセス権を剥奪、と同時にアクセスパスワードを変更し、アクセス権を持っていていい相手にだけ、安全な方法で送る。これだけの行動を終えるには、その日までの時間は短すぎたくらいだ。 

 そしてそもそもが、初めから問題なのだ。どの被害者も、子供が殺害されてから警察に連絡をする。警察に言えば子供の命はない、と言われているからだ。仕方がないと言えばそうなのだが、しかしそれでは追えるものも追えないというものだ。この4つ目の事件でもまた、新しい情報は得られないばかり。ただ、これまでとは違う車が使われたこと、が遺族の証言から分かったくらいだ。
「おそらくは、先日の映像から捜索範囲を絞ってきたことが分かったからでしょうね。相手は賢いのもそうですけど、慎重です」 
 と、きりたんは疲れ気味な顔でそう話す。 
「それはつまり、捜査の範囲を絞る方向性は正しかったということ?」 
「さあ……。私が犯人なら、警察が捜査範囲を誤った方向に絞っているなら、ここぞとばかりに『まるでそれが正しいかのような』行動を取りますけどね」 
 きりたんはすらすらとそう語る。そこには、ある種の諦念が入っていることを、イタコは針のように感じた。数日前、ずん子と話したときにも、同じような痛みを感じたことを思い出す。 

「何も、見つからないんです」 
 ずん子は泣いていた。無理もないことだとイタコは思う。こんなにも痛ましい事件は、イタコだって初めてだ。そして、その一つ一つが、苦しくつらい被害をあざ笑うように投げつけてくる。 

 正しさに憧れて警察官に入った妹の姿を、危うくも誇らしく感じていた。しかし、これが現実なのだ。邪悪な人間が、正しく清い者を嘲笑う。清廉であればあるほど、優しくあればあるほど、それはその人物を叩き潰そうと牙を剥き、突き立て、そしてその心根を噛み砕き、すり潰して火にくべる。小さな不正にも毅然と立ち向かっていたずん子。立場の強い者が相手でも、臆する神経をどこに置いてきたのかと思う程に力強く戦った彼女を支えていたのは、きっとありきたりな、『正義は必ず勝つ』なんて意識だったろう。その正義は、初めて見るほどの邪悪な相手に、これで4連敗を喫したことになる。立ち上がれという方が、きっと酷な話なのだ。 

 そしてそれが、どちらかといえば淡々と物事を見るきりたんにもついに波及したといえる。 

 それだけではない。もはや、マスコミも、それに先導された世間にも。更には警察官の中でも決して少なくない数の人間も、この事件を諦めたい心が芽生えているのがわかった。畢竟、イタコに刺さる目線は、当初の焦燥や怒りといったものから、諦念と絶望に変わっていったのだ。彼女自身がそれを最も強く感じていたし、そしてそれを否定するだけの何かを、何一つとして持っていなかった。 

 努力することに、何の意味があるのか。解決しない「懸命な捜査」は、ただただ人員を疲弊させるだけの悪行に過ぎない。心が折れそうになるのを、懸命に耐えるしかない、絶望。イタコも、ずん子も、現場に向かう捜査員たちの疲弊は限界だった。 

 そして、それをあざ笑うかのように、5回目の事件が起きる。この報に、捜査本部がざわついた。初めてのことだったのだ。まだ、身代金を要求されている段階で警察に連絡がきたのは。 

「行くわよ」 

 それでも。 
 どれだけ苦しくても、辛くても、今一番辛いのは被害者達だ。苦しくても立ち上がって現場に向かわなければならない。諦めたい気持ちを今一度へし折って、立ち上がらなくてはならないのだ。 

 被害者は琴葉グループ会長の娘、双子の女の子だ。名前は茜と葵。 

 ああ、ここにきてついに、犯人たちの最大の嘲笑であったことだろう。「今まで4件もやって、警察は何もできていない。今度はお金持ちから頂きますね」という挑発を、その裏に感じられない筈も無かった。 

 流石に大企業相手に「警察に関わるな」が通用しないのは分かっていたのだろう。犯人たちの要求は、「警察には好きに連絡すればいいが、引き渡し場所には母親が一人で来ること」だという。もはや、警察は敵にならないとでも言いたげなその要求は、しかし捜査員たちの気付けにもならない。半ば項垂れながら車に乗る部下の姿を、イタコは悔し気に歯噛みしながら、自身も駐車場へと走った。 

 パトカーに乗り込み、いつもより強く扉を閉める。自分の中にある、ネガティブな思考を一度止める。ぐるぐると回る思考の靄を、意識的に晴らしていく。まだ、諦めていない。まだ、警察官として戦える。バックミラーに映る自分の顔を見て、強くアクセルを踏んだ。今度こそ、今度こそ被害を止めなくてはと、強く思いながら。 

 この日全てが変わることを、まだ誰も知らない。