ぼざろ映画のざっくり感想

ぼざろ映画のざっくり感想

映画前後編をとりあえず見終わったので感想諸々。

一番の予想外は後編が終わった後に「二期決定!」ってテロップが出なかったことです。とりあえず2期やらない理由がないのであとはいつ発表されるかではあるんですが、正直全然急いで作って欲しいとは思わないので、時間をかけて最高のアニメを見させてほしい。……ので、予想外ではあるんですがまだかよ!みたいな感覚はないです。2025年冬とか2026年春とかかなー。

ここから先は原作の2巻以降の話も普通に書いてるので注意。

私、後編は泣かなかったけど前編はぼろぼろ泣きました。
感情的なのが前編、努力の集大成なのが後編だと思います。私は努力よりも感情的な方が感動させられるんだと思いました まる

挿入歌演出とラストのフラッシュバック

正直なことをいってしまうと、総集編な感じで音楽流しながらシーンを流し続けていく演出。実はあれあんまり好きではない(アニメは映像もだけどやっぱりキャラクタの声を聴きに来ているので)んですよね。
だけど、今回に関してはしっかり意味があったなぁと後編でやられた感を受けています。

多分フラッシュバッカーだけなんじゃないですかね、劇中歌に使われなかったの。
ちょっと前編で使われた楽曲覚えてないんで他にもあるかもだけど。テレビアニメでのOP、EDと君に朝が降る以外は使われてた気がします。
ここで言うフラッシュバック(-er)は映像表現の一種を用いた、本題の嫌な記憶を強く思い出す方のフラッシュバック。それと、自分たちの楽曲のフラッシュバッカーを重ねている表現だったように思っています。使っていなかった曲があって、そのタイトルがフラッシュバッカーであり、フラッシュバック表現を用いて最後に出している、というところで、あそこにはフラッシュバッカーの歌を当てはめて良いという認識です。

フラッシュバッカーの歌詞は、最終的には前を向いているものだと思うので、あれは『過去のトラウマを思い出し(フラッシュバックする)、向き合う後藤ひとり(フラッシュバッカー)。彼女は今、前を向いています』という「今日もバイトかぁ」という言葉が持っているポジティブさの補強なんじゃないかなぁと受け止めています。

最後の演出がちょっと不穏に見えるというか、後藤ひとりは「この指」にとまれず、先生に手を引かれてその場を離れました、で終わるのはちょっとどきどきしました。
でもあそこに後ろ向きな意図を見出すのはちょっと無粋だし、少なくともTVアニメの方を通して見てればそういう終わりではないことを認識していると思うので、あの終わり方に特殊な意図を見出す必要はないんだと思っています。

フラッシュバッカー、後ろを見ることで前を向くことができる歌だと思うんですよ。その表現じゃないかなぁ……。
眩しさだけで心が宙に舞う朝(朝っていうのもアルバムにおけるぼちのキーワードですよね、と今気づきました。絶対意識して言葉選んでるよこれ)はやっぱり結束バンドであり、虹夏ちゃん(らしくない未来を信じちゃうよ→未来を語ったのって虹夏ちゃんだけなので)だし、
君の言葉がずっと離れないって「凄い人でも見えない所で一杯努力しているんだと思う」って初めて自分の『人気でカッコいいギターヒーロー』だけじゃない部分を見てくれていた人の言葉とか、「ぼっちちゃんとなら夢を叶えられると思うんだ」って弱くてダメな筈の自分に夢を語ってくれた人の言葉とか、そういうもの(を送ってもらった過去=後ろ)の大きさを間接的に表現するための過去の傷?という印象。
映画(総集編)になって色々(特に前編)省かれたために、伝えきれなかった後藤ひとりの変化の大きさとか、「今日もバイトかぁ」という言葉を文字通りに「今日もこの後バイトがあるなぁ、とぼっちが言った」みたいな認識をさせないための演出だと思っている。多分。

というかこの文章書くためにフラッシュバッカーの歌詞見直してたんですけどめちゃくちゃな歌詞だ。これは無理だ。後藤ひとりは器用じゃないので、やっぱり主語は自分だと思うんですよね……。後藤ひとりの中にあるその記憶、自分を生かす全てなんだという重い熱を感じます。

あるいは、アニメ冒頭でも「この指とまれ」の回想ってそこで終わってるんですよね。
「こーのゆーびとーまれー」までは思い出しているけど、先生に連れられているシーンは多分初出。
後藤ひとりにとっての当たり前だけど辛い過去なので、或いは意図的にそのシーンを思い出したくは無かった。自分の相手になってくれる友達はいない、という事実は嫌なもの。だけど今はあのシーンを頭に思い浮かべながらも平凡な日常を送ることができる(=「今日もバイトかぁ」)という捉え方は無しではないかも。

こじつけの話

と、ここまでが映画鑑賞1回目を以て思っていたことです。
複数回見ていてちょっと色々と思ったのでここで追記していきます。

Re:Re:というタイトルのことを考えています。
これは勿論アジカンさんの楽曲「Re:Re:」から踏襲したものであることに間違いはないんですが、数ある楽曲の中からそれを選んでいることには意味があると思います。

Re:Re:、普通に考えればこれってメールのタイトルにつくあれですよね。
最近だとLINEが多いかもしれないですが、返信をするとメールの題に「Re:(返信元のメールの題)」って付くんですよ。知ってますか若者たち。で、その返信に返信すると「Re:Re:~~」って題になるわけです。要するにこれは『返信』と『返信への返信』です。

……今のオタク、これ分かるのか?
社会人ならメールするから分かる? 高校生くらいの子だとまじで意味わからんのでは疑惑……。

Re:

じゃあ最初の返信は誰の何に対する返信か、という話になるんですが、ぼざろの主人公は後藤ひとりなので、「後藤ひとりのアクションに対する返信」か、「後藤ひとりがおこなった誰かに対してのリアクション」でしょう。で、後藤ひとりは誰かに対してアクションを起こせる人間ではない(なかった)ので前者です。

彼女が起こしたアクションは「バンドを組みたい」であり、「ギターを持って行った」で、そこに返ってきた返信は「クラスメートの賞賛や期待」ではなく、「ギター弾けるの? 助けて!」という虹夏ちゃんからのヘルプ(物語の始まり)。
そして初めて(多分本当に初めて)誰かと何かを頑張るということを形にしたぼっちへの、「ぼっちちゃんとなら夢を叶えられる」「沢山見せてね、ぼっち・ざ・ろっくを!」というこれからの道筋(物語の骨格)。

多分これが『頑張った後藤ひとり』と、彼女に送られた返信のすごく大きな枠組みです。
他にも喜多ちゃんに声をかける→メンバーに入る
リョウさんに作詞を見せる→自分らしくありなよ、と言ってくれる
といった形で「後藤ひとりのアクション」と「周囲からのリアクション」でぼっちがガチのぼっちから結束バンドのギタリストのぼっちに変わっていく、ということを描いているような。

Re:Re:

そして後編は「ぼっちちゃんのロックを見せて」にぼっちが応えた話です。『Re:Re:後藤ひとりの頑張り』は、後藤ひとりの(n年間の)頑張りの集大成です。
これ以外に言うこと無いんですよ。

文化祭への参加とかする気が無いのについ衝動で参加希望書いちゃうのは彼女のぶっ飛んだ承認欲求故ですが、その後の苦悩は「虹夏ちゃんも文化祭ライブやりたいって言ってたし」「でも虹夏ちゃんも悔いが残らないようにって言ってたし」なので、行動原理にかなり食い込んでるんですよね。

結局自分では決心できてないじゃん、なんですけどそりゃ15年間染みついた生き方、そう簡単に変わるなら陰キャの苦労なんて無いよ。

で、この後書くんですけどボトルネック奏法って多分ただただ「ギターが上手いから」出来るのとはまた少し違うと思うんですよ。「ギター弾けるなら別にそこまで大したことじゃないよ」ならごめんなさいなんですけど……。

おそらく、ずっと孤独だった彼女が一日6時間の練習を続ける中で得た知識、理解、そういうものが凝縮されて、「1弦が無くて残りの5弦での演奏を強いられる中で選んだボトルネック奏法」に繋がったと思っています。これが彼女のロックでなくてなんだ、という。「沢山見せて」に応えた最初の「ぼっち・ざ・ろっく」がこの文化祭ライブです。

Re:とは

最初に述べた通り、「Re:」とは返信です。返事です。
返事とはコミュニケーションであり、相手がいて、少なくとも片方がコミュニケーションの意思を持たないと『Re:』は生まれず、双方がその意思を持たないと『Re:Re:』は生まれません。

後藤ひとりがずっと持ち続けていた自分なりのアクションへのRe:アクションと、その貰ったリアクションに対するぼっちちゃんのRe:Re:アクションは、彼女がずっと欲していたコミュニケーションで、それを描いたアニメの1期、もとい劇場版だったのかもしれないな、というようなことを考えていました。こじつけの話です。

別視点の話

そもそも最初は「Re:」というタイトルがよく分からなかったんですよね。
Re:Re:という楽曲があるのでそれをもじっている、というのはTLで語られていて察したんですが、上記の通りそれだけではないよね、と思ったので。

で、総集編=既に出ているものの繰り返し、という意味でのRe(=リターン、リバイバル、まあ何でもいいですが)かなぁ、と思ったのが最初でした。なので、あのフラッシュバック演出はカセットテープ的な演出かもしれない、とも思ったり。
ただ、あそこから繋がらない(フラッシュバックで冒頭に戻る=B面を終えてA面に戻る、なんですが、映画のコピーが【目指す道は見えた】だったので、どちらかといえばあそこでA面終わりじゃないかな、と思っている)ので、これは個人的には却下案。

カセットテープ、既にぼざろのオタクの過半数に「カセッ……何?」って言われそうで怖いですね。昔はのう、鉛筆を使ってな、くるくると……やめておきましょう。

後藤ひとりとの関係性について

ぼ虹の人間のたわごとです。ここからはまた劇場版後編を1回見ただけの段階で書いた内容です。まあ今見直すと劇場版の話してないけど。

後藤ひとりと喜多郁代は、親友だと思っています。
それこそ漫画のような、「あなたと私は正反対だけど、あなたのことが大好きだ」という感じの親友。喜多ちゃんが文化祭で500%実力を発揮できたのも、ぼちが特に原作で交友を少しずつ増やすことが出来ているのも、お互いに憧れあっている部分故かな、という感覚。
憧れは理解から最も遠い、という言葉があるように、きっとお互いのことはまだ全然分かっていないと思います。歌詞の意味が分からなくて家に押しかけたりするし、押し入れの写真で大混乱する。或いは、喜多ちゃんが余裕で理解しているクラスメートの好意をずっと分からないまま混乱した(お祝いを呼び出しだと思い込んだ)り、喜多ちゃんになろうと考えてた筈がパリピになってたりするぼっちのように。
それでも憧れてしまう、というのが多分この二人の関係性なんだろうな、と。

一方で山田リョウとは、悪友とでもいうのか、そういう関係があると思っています。綺麗な言葉にすると理解者です。
後輩のギター見に行く道中で(自分達しかギターに詳しい人がいないのに)(誰にも告げもせず)さっといなくなって帰るってやるか??????
言い出したのは100%リョウですが。それに乗れちゃうのがぼっちです。

ぼちの音楽への姿勢や、もっというと孤独感の部分について、一番分かっているのはリョウさんだと思う。これは喜多ちゃんには分からない部分で、家に泊まりに押しかけても分からなかった後藤ひとりの作詞にこもる意味を、彼女は出会ってすぐの頃から「これは君が無理をして出力したものだ」と一発で見抜けるくらい理解しているし、リョウがスランプに陥った時一番に動き出すことが出来たのはぼっちなんですよね。

じゃあ伊地知虹夏とは何なんだという話になると、これは全てです。「親友でもあり悪友でもある全て」という意味ではなく、ただただ大袈裟な言葉としての全てです。
大袈裟でキザな男が想い人を口説く時に使うような「君は僕の全てだ!」という言葉を、額面通りに受け取める「全て」だと思います。
何で関係性の話なんて始めたかというと、要するにフラッシュバッカーです。ずっと離れない言葉も、君がいるだけで心が宙に舞うのも、そういう「ずっと自分の心の中で優しく光を放っている存在」が伊地知虹夏です。

ずっと受け身で、都合の良い展開きてくれ、と思っていた後藤ひとりが初めて自ら動いた(のはギターを持っていく、というだけの行為だったけど、彼女にとっては本当に大事な一歩だった筈です)が失敗。したところをその勇気(ギターを持ってきたこと)と一緒に拾い上げてくれたのが虹夏です。ヘタクソだと思ったはずなのにバンドに入れてくれて、夢を語ってくれて、無謀だと思ったけどそれが自分となら叶えられると言ってくれた存在。「本当の夢も叶えてあげたい」と内容を知る前から自分の底力を発揮するトリガーになるくらい、彼女の夢が意味を持っているわけですよ。

じゃあ虹夏の方からはどうなのかというとやはり起点は夢にあって。
そもそもがバンドを組むよりずっと前から好きだったギタリストが自分の窮地を救い、一度は離れたメンバーともう一度引き合わせてくれて、そして再びライブでバンドの危機を救ったという経緯があれば完全にヒーロー待ったなし。彼女が夢を語って共有するのも分かろうというものなんですが、5巻で伊地知家にとっての夢がただ「叶えたい目標」以上の意味を持っていることを叩きつけてしまったので、彼女がその夢を語って「君となら叶えられる」ということの意味はわけわからんくらい大きいものです。

母から伝え聞いた夢の素晴らしさを、姉を通じて理解し、自分の為にそれを捨てたであろうかつての姉の夢も、その先に生まれた今の姉の夢も、自分の力で叶えると決意したその夢を『一緒に叶える』。カーッ、言う事ねぇや……

前編のライブ

前編のライブがやっぱりすごく好きです。あれはその前のきくりさんとの路上ライブから連なっている、後藤ひとりへの凡人からの視点の変化がそのまま描かれているので。

2号さん(後藤過激派って2号さんだったよね)の「がんばれー」「だってなんか不安そうで」の時点で私は涙腺死にかけてるんであれなんですが、台風ライブでの「興味なーい」から続く不調なライブ。あそこで1号2号さんがずっと不安そうな顔なのがね、だめなんですよ。つらくて。
でも不安定で苦しいライブの時からずっとニコニコ笑顔のきくりさんが好きです。あの人本当に音楽好きだな。きっと彼女もそういう苦しさもひっくるめて通ってきたし、それをとても大事にしているんだと思います。

で、そこに入るギターヒーロー、アドリブのソロ、楽しそうな顔で体全体でリズムを取ってる1号2号さんのあの、あの、光……。「ちょっといーじゃん」そうだろ!!!!!!!!! そして途中で出てったお前!お前まじで勿体ないな!!!ってなるやつです。

劇場であれ見られるのは本当に最高だった。最高。カット多かったけど仕方ないしめちゃくちゃ満足度高い前編でした。
あ、でもオーディションでダムが無くなった事実に爆笑しつつ劇場爆音ダム見せろや!ってキレてました。

後編のライブ

後編は書いた通り努力の集大成のライブだなぁと思ってます。
喜多ちゃんのアドリブはさぞ練習した上でのことだろうし、そのぼちのトラブルに合わせてすぐに動ける3人のチームワークとか、結束してるじゃん……っていうそれ。

と加えて、ボトルネック奏法です。

先述の通り私はギターについて詳しくないので、もしかしたら的外れかもしれないんですが、ボトルネック奏法って要するに強引に弦を抑える場所を作っちゃうことで音を調整させてるんですよね?
弦の太さと抑える位置によって音程を決めているのがギターという楽器であることを思えばそれは「なるほどね~そういうのもあるんだ~」とは思うんですが、あれってただ『ギターが上手い』『コードを完璧に弾きこなす』『運指が神懸っている』っていうのとは違うと思うんですよ。有識者、ギターが上手いってのはあれができるのも延長戦にあるものなのか……?

後藤ひとりは頭が良い子ではないんだけど、真面目な子ではあって。
勉強しても出来ない子なんですよね。そういう子が積み重ねてきたギターのスキルの引き出しの中にボトルネック奏法が存在すること、とても意味があることだと思っています。ただ●コードを弾けるようになろうとかではなく、ギターのこの音はどういう理論でなっているのかとか、そういう仕組みの部分からちゃんと勉強して、物覚えが悪いもんだから、何度も何度も実践したんだろうなぁと。「このコードはこの指の形」じゃなくて「このコードはこの音だからこことここを抑える」っていう認識が無いと、アドリブでボトルネック奏法できないんじゃない?というそれです。

あとやっぱりあそこの喜多ちゃんは顔がカッコ良過ぎるよね……。観客の中に、絶対喜多ちゃんが『リョウ先輩素敵!!!』ってなったような感じの一目惚れやらかしてる子いると思うんですけど……。ごめん、喜多ちゃんはリョウ先輩のなので諦めてもろて……。

後藤の『朝』を考えていました

で、上でもちょっと書いた「朝」はぼちにとってのキーワードですよねって話についてもうちょっと考えてたんですが、
書いた通りぼっちにとっての朝を虹夏ちゃんであるとすると、
・ぼっちは孤独だった(=暗い夜)

・虹夏ちゃんに拾われて『朝』になる(=朝が降る)

・STARRY(=星空、明るい夜)の夢を知り、最高に明るくて輝く『夜』という夢を抱く(=星座になれたら)

という流れが綺麗に繋がるので、これはSTARRYの夢を叶えて、夢の先の道が分からなくなって星空という夜に囚われた虹夏ちゃんの「次」の朝になる後藤ひとりがいると思います。あーーー繋がっちまった。消されちまう。

原作の後藤は別に朝がキーワードになってない? うるさい正論を吐くな。

おわり
良い映画でした。Thank you!(舞台挨拶最後の掛け声)

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