雑記

破砕の音。の後語り。

ということで、12月1日の結束ロック!9にて「破砕の音。」を頒布させて頂きました。

お手に取って頂いた皆様、本当にありがとうございます。
一応委託とかもしてたんですが、公開する直前に気づきました。完売です。ありがとうございます。冬コミにも持っていきます。

電子版こちらで読めます。

ここであとがきと称しているのは何かというと、「ちょっとだけ内容について話をしたいけど本にそれ載せたくねーなー」という感じだったので、「んじゃ外に載せるか」というやつです。別に読む必要は全くありません。ただの後語りです。

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ということで、破砕の音。でした。
一応、ここからは読んでくださった方前提で話をしていきますね。本でいうところのあとがきに位置する話です。あとがきのおまけです。別名蛇足。蛇足なので、本当に読む必要も意味もないやつです。読まない方が良い、とまでは言わないけど人によるか……?

と、警告もしたので本題。

破砕の音。は、既に感想を(大変ありがたいことに)頂いていて、そこでも感じ取って頂いたように、山田リョウを救い上げる喜多郁代の話として描きました。この山田リョウの救いというテーマは自分としても描き切った感はあるので特に言うこともなく、読んでくださった方々が各々感じるものがあれば良いなぁ、と思っています。

で、わざわざこんなおまけあとがきを書いているのは、いわゆる裏テーマ的なものとしての話があるからです。裏なんだから最後まで伏せとけよ……という気持ちもありつつね、この話したかったんだもんというそれ。

今回の話では、逃げたギターとなった喜多ちゃんの話に触れました。本に書いたあとがきでも触れている通り、まさか劇場版で補足されるとは思わなんだでしたが……。
ただ、虹夏ちゃんは「まさかギター弾けなかったとは」という旨の話をしているので、喜多ちゃんは結局あのメールは送れなかったんですね。多分、送る時には「私は本当はギター弾けないんです」という内容が記載されていると思うので。映画で映っていた範囲でも、「私本当は」みたいな文字列があった記憶。本当は、弾けないんです、という告白だと思います。

これは喜多ちゃんの大きな罪なんですけど、それをあっさり許されてしまったことにやっぱり辛さがあるだろうと思っているのが、この話の裏テーマの根っこにあります。
自分の罪が、何の償いもないのに許されている、というのはとてもつらいことだと思います。いや、それでも許されているだけならまだマシだったかもしれません。ただ、結果論として、あの時無謀にもギターに立候補して、そして当日に無責任にバックレるという最悪なやらかしをしたからこそ、虹夏ちゃんはぼっちちゃんに出会えた。「やって良かったこと」になってしまったんですよね。

もし今、喜多ちゃんが魔法の力で過去をやり直せるとしても、幸せな未来の為には同じように立候補して、同じようにバックレないといけないんです。残酷なことです。

虹夏ちゃんは天使なので、本当に許しているんでしょう。喜多ちゃんとしてもそれが自分でも分かってしまうし、全く気にされていないことを理解できてしまう。自分は罪だと思っているのに。「私の気が収まりません」と言ってみても、やらされたのはメイド服着て掃除接客。やらかしたことの大きさ――自分が大きな罪だと思っている――からすれば、全く釣り合っていないんです。

「私がやってしまったこと」に罪を感じ、反省し、悔いている。にもかかわらず、周囲はそれを気にしていない。何だか、「自分が悪いことをしました」と償いに出頭したのに、親には「この子はやっていないんです、良い子なんです」と言って庇われるような居心地の悪さ。申し訳無さ。
虹夏ちゃん達は「ぼっちちゃんのおかげで助かった」という奇跡を喜びますが、喜多ちゃんだけは思ってしまうでしょう。「でも、それは結果論だ。もし出会えていなかったらどうなってた?」と、思わざるを得ないでしょう。

原作でもアニメでも、喜多ちゃんは結局この件をそれでも吹っ切っている(結論としては吹っ切らないといけない。罪を犯した側が「私をしっかり裁いてください」だなんていつまでも言い続けるのは、あまりにも傲慢なので)ようにも見えるんですが、それでもこの件を重く捉えていたことは分かります。でないと、「必死でやってもできるようにならなかったギターを、それでもなんとか弾けるようになって謝りに行きたい。だから今まで関わりの無かった同級生に教えてくれと頼みこむ」なんてことはしないでしょうから。

結果として丸く収まった事実を知って、「良かった、ライブに出られなくて苦しむ先輩達はいなかったんだわ」と思って立ち直るのか、それでもその罪の意識を根底に置き続けるのかは人それぞれですし、どちらが正しいというものでもないでしょう。いつかはそれを置いて前を向かないといけないのも事実。それでも、今回は心のどこかにそれが引っかかり続けている喜多ちゃん、というものを意識して書きたかったのが今作になります。

肯定されてしまった罪と向き合って、乗り越えるためにはどうすれば良いんですか?
という、あまりにも不毛で、無意味で、ただただ罪人が自分の罪によって苦しんでいることを否定したいだけの疑問です。

罪の清算は、贖罪によって果たされます。
社会的にはそれが刑法だったりしますが、心理的にはどうでしょうか。人を殺してしまって罪悪感を抱くまともな人間が、例えば5年くらいの懲役を経たとして、「よっし、刑法の通りの罪は償ったし私はまっさらだ! 心機一転頑張るぞい! 殺しちゃった相手のことは忘れよう!」とは思えないでしょう。普通ならずっと罪の意識がこびりつくものだと思います。多分ね!

つまるところ、その贖罪が社会的にではなく心理的なものとして作用するためには、他ならぬ本人がそれを受け止められなくてはいけません。自分の罪を、前向きに受け止めることができないといけません。

その為に一番簡単なのは、罰してもらうことでしょう。傷付けてしまった張本人から、負った傷と同じだけの痛みを与えられれば――喧嘩両成敗――それは、一つの解決です。「セリヌンティウス、私を殴れ」です。あれ、「私を殴れ、セリヌンティウス」だっけ?

でも、その罪で最も大きな被害を受ける筈だった人は被害を免れてしまい、「いーよ気にすんなw」と笑っている。じゃあ、どうすればいいんですか? セリヌンティウスに、「お前は結果的に来てくれたんだからええやんけ! 気にすんなガハハ!」なんて言われたら、メロスは一生罪悪感を背負い続けたでしょう。勿論逆も然り。彼らは殴り合えたから元通りになれたわけです。

じゃあその一番簡単な手段が取れないとき。本当に相手が気にすんな!としてくれちゃったときは、どうすれば?

その「どうすればいいの?」への答えの一つが、その罪を犯していた『ことで』誰かの力になることだと思います。
私はその重みを知っている。痛みを知っている。「だから」寄り添うことができる。「自分は最低で最悪だったけど、そんな最低な私にだからできた事もある」と思えた時に、初めてその罪を軽くすることができるのではないかと、そんなことを思います。罪を犯していて良かったとは思わなくても(思う必要もない事です)、それでも自分を責めるだけの材料だったそれが誰かを救う一助になった時、ただただ痛みを与えるだけのものではなくなるんだと思います。
その時初めて、禊ができるのかもしれません。肯定されてしまった罪を、自分自身でも、一か所だけでも肯定的に(或いは『否定的にではなく』)受け止めることが出来れば、それこそが前進であり、それこそが意味になると思います。

痛みを知っているとやさしくなれる、というのはなんか高尚過ぎる……というか、言ってるのって痛みを与える側ですよねというかでまあ好きじゃないんですけど、言葉をもっとフランクにしてしまえば「接客業やると新人のもたつくレジの人に頑張れって思えるようになる」とか、「天才には分からない人の気持ちが分からない」とか、そういう身近でよく言われることの延長線上の概念とさほど変わりません。ということを思うと、その鬱陶しさみたいなものが少し薄れる気がしますね。(あ、私的に「分からない人の気持ちが分からない」なら「天才」ではないと思います。天才の定義にうるさい人なので。)

話を戻します。私はその「痛みを知っているとやさしくなれる」の根底にあるのは、親近感ではなく、どちらかといえば同情(聞こえの良い言葉ではないですけど)だと思います。つまり、自分をその立場に置き換えて考えることができるかどうかです。「この人私と似てる~」とは似て非なるものではなかろうか、と思います。「私がこの人の立場だったら(きっとすごく苦しい筈だ)」です。「この人は私と似てるからきっとこのときこう思うだろう」ではなく、「あなたはつらい気持ちなのだろう。このとき私なら凄く辛いと思うから」です。相手と自分を同一視しない点が違います。

あくまで主観を自分に置くところが好感度高いですね。
そうして、自分なりの救いの形を模索することそのものが禊であり、贖罪であり、前に進むということなんだと思います。

とまあ、ここまで面倒臭い事を書いてますが、破砕の音。の喜多ちゃんは、そこまで考えていないと思います。でも、何年か経った後にふと、そこに意味を見出している自分に気が付くと良いなぁ、とも思っています。

本のあとがきにも書いたんですが、この話、結局1年くらい書いては消してーを繰り返していたものになります。実はそういう状態になっている話はぼ虹にも2本くらいあるんですけど、何か理由がないとエタりそうです。よく完成したものです。
真面目な方のお話になったとは思うんですが、そういうお話を書くとどうしてもなんか思う所が出てしまうので、こういう後語りはそんな自我の供養だったりします。

ばいばい自我。

あとは、タイトルで遊びたかったのでそれができて良かったなぁという感じのことを思っています。
この手の遊びは好きなんですが、タイトルは後付けするタイプなのでなかなかできません。最初に決めろ。今回も後付けです。反省しろ。
ちなみに元ネタは森博嗣先生の「封印再度 Who inside」。簡潔かつ直球、そして物語をしっかりとあらわしたタイトルですね……つえぇ……。
S&Mシリーズはいいぞ。私も読み返したい。

無限に話せてしまうのでそろそろ〆。
とはいえ、こんなところまで人が読んでいることを想定していないので、なんかうまいことを言って〆ようという意思もないのでした。あれ、でもこういうことを書いてるということは読まれることを想定しているのでは……?ムジュン

フラストレーションに対する昇華の手段の一つとして、よく創作活動が挙げられます。
お真面目な話を書いていると、しょーもない話を書いている時よりは読んでくれた人がどう思うのだろうかということを気にしてしまうのですが、これは何故でしょうかね。と、たまに思います。
自分の創作が、描きたい、作りたい、という欲求のストレートな発露なのか、抱えるフラストレーションの昇華の形なのかがわからなくなるからなのかもしれないな、と最近思うようになりました。どっちでもいいのにね。

なんで休みの日に締め切りに追われて書いてんの(なんと、世の中は休日に〆切に追われていない人の方が多いんです!!ビックリ)と言われると困るくらいには何かしら作るのはもう当たり前みたいなもので、今更そこの動機が何でも「あ、そう……」くらいしか言えないんですが、もしこれが昇華の一つだというなら多分自分が生きてる意味みたいなものだと思うので、ちゃんと昇って華になっていればいいなぁと望むからかもしれません。だから、誰かにとって意味のある作品になっていますように、と願います。
なっていますように、というか、なっていたらいいなぁ、ですね。ニュアンス。

長々といろいろ書いていましたが、創作を読む、見る、という行動の主語は読者です。後語りと言ってやいのやいの書かれたここまでの文章は、すべてただのノイズです。なので、作者とかいう第三者のこういう戯言は、全部破砕の音。とは直接的には関係のない話です。
「この後語りマジで意味不明だけど破砕の音は面白かったよ」という方がいたら、その面白かっただけを見ていただきたいし、「破砕の音はくそつまんなかったけどこの後語りは面白いね」と思った方(がどうしてここ見てるのかわからんけど)も、そのくそつまんなかったの方だけが真実です。

おしまい。ここまで読んだという珍しい生態の方がもしいらしたら、ありがとうございました。
ここまで読まれたと思うとちょっと恥ずかしいね。笑える。

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